わたしと未来と韮崎vol.16に辿り着いた皆様。
はじめまして、齊藤聖奈です!
3月に高校を卒業したばかりの18歳です。
多分リレー記事では最年少なのではないでしょうか。
文章を考えながら、18年しか生きてないようなポンコツお子ちゃまに何が書けるのかと震えています。
今回は、私が「学校」という組織の中で経験してきた「環境が選べないことで苦しかったこと」と、「学校ではない別の場所を選べたことで楽になったこと」
この2つを軸に記事を書けたらと思います。
生い立ち
とりあえず私がどんな人物かを詳しく知っていただくために、どんなお子ちゃま時代を過ごしたかをご紹介。
2001年生まれ。現在18歳。
小学2年いっぱいまでは甲府市に住んでいました。
小さい頃はほぼ人見知りせず、誰とでも仲良くなるようなお子ちゃまでした。
歌って踊るのが好きで、母親曰く、小さい頃の私は歌って踊ってる印象しか無いらしい。
長女で6個下の従兄弟が産まれるまで唯一の女の子だったので、小さい頃は家族親戚含めてそれはそれは可愛がられて育ちました。(今も可愛がられてます。ありがてえ。)
おかげさまで、「私は可愛いんだ!」という自己肯定感高めのお子ちゃまでした。
そんなこんなで、小学3年の時に韮崎に引っ越してきます。
小学3年生、韮崎市民になる
韮崎に引っ越し。
ということは、転校を強いられる訳です。
この時の私は、転校した先でも馴染めるだろう!と思い、ワクワクしていました。
しかし、現実はどうでしょう。
転校してすぐに、人見知りしない性格と自己肯定感の高さが仇となり(と思っている)、「あの子はぶりっ子。浮いてる」認定を食らうのでした。
しかし、まさか自分が浮いている、なんて夢にも思っていなかったので、上手くやってると思っていました。
さすがに高学年になると、浮いてるのか?くらいには考えるようになりますが、ここは自己肯定感の高さでカバー。
違和感なく進学します。
中学生、暗黒期に突入
そして順調に進学した私は、普通に部活に入り、勉強は全然しなかったけど、それなりに生活していきます。
しかし、中学2年の時に起立性調節障害という自律神経系の病気にかかります。
この起立性調節障害、とにかく朝が全く起きれなくなり、昼間からじゃないと動けなくなる、原因は精神的なものから、という本当に厄介な病気で、おかげで傍から見たらただ朝起きたくない子、サボってる子に見えてしまう。
私も案の定、昼間から学校に行っていると、「なんで昼間は来れるのに朝来ないんだ」「仮病なんじゃ?」と囁かれるようになりました。
学校に行けなくなる
仲のいい子にはTwitterで私にしか分からない様に悪口を書かれ、学校に行けない時間がある分だんだん浮いていく。
学校に行けなくなりました。
親にも先生にも学校に行ってくれ、来てくれと言われ続ける。
その状況の中、学校に行けない自分はダメな奴なんだと思うようになります。
その時に苦肉の策くらいな感じで、適応指導教室に行くことを勧められます。
そこで初めて適応指導教室の存在を知ることになります。
学校以外の選択肢に出会う
まずここで適応指導教室がどんな施設か、説明しておく必要がありますね。
適応指導教室とは、不登校の小中学生向けの施設で、勉強の支援をしながら不登校を脱却しよう!という目的で教育委員会が運営している施設です。
ここに通うと、本籍校には行けていないけど、「適応指導教室で勉強してました」という評価(?)が付くのです。(進学を考えた時にこれは結構ありがたかったと記憶してます。)
学校に行かないならせめて…という感じで渋々通いだした訳ですが、不登校になってから生粋の引きこもりになっていた私は、最初は毎日は通えず、親とバトルの日々。
だけど、たまに行くだけでも職員の先生は顔を覚えてくれていて、「よく来れたね!待ってたよ!」と声を掛けてくれていました。
不登校になり、まさか人から待ってたよなんて声を掛けられるなんて思ってもいなかったので、嘘つけ!なんて思ってました。(なんだかんだ嬉しかったりもした。)
おかげさまで、中学2年の12月頃にはどうしても修学旅行に行きたかったので、少しずつ学校に戻る流れになりました。
初めて自分で決めたこと
中学3年になり、修学旅行に行きたい一心で戻った学校。
クラスに仲のいい子がいた事もあり、修学旅行に参加でき、学園祭の練習期間までは無遅刻無欠席を貫くレベルになっていました。
しかし、学園祭の練習が始まると雰囲気は一変。
諸々出来ない奴は見学でどうぞと言わんばかりの圧を感じ、私の中でモヤッとしていたものがハッキリと分かるようになりました。
夏休み明けには「私のいるべきはここじゃないな、最低限の集団行動は学校じゃなくても学べるか」と思い、割とサラッと適応指導教室に戻ることを決意しました。
学校へ行かない、という選択肢を初めて意識的にとった瞬間でした。
適応指導教室に戻ってからは、学校とは別の友達もできたり、たまにあるイベント事が楽しかったりでなんだかんだそれなりの生活を送れるようになっていました。(それでもメンタル面は最悪だった。暗黒。)
ちなみに、余談ですがミアキスに出会ったのも大体この時期です。
なのでミアキス初期のスタッフさん方は私の暗黒時代をよく知っている方ばかりです笑
暗黒期の私にはみーんなキラキラして見えてました。
ミアキスに出会って、すぐこの場所好きになって、たくさんのことを体験させてもらいました
私が大事にしたいこと
その後定時制高校になんとか進学して、なんとか卒業して、現在はなんとかフリーターをやっています。
あとはダンスを習っていたり、高校3年間は演技を習っていました。
不登校を経験してから今まで、嫌な事が数え切れないくらいありました。
中学時代に教師に言われた嫌味は全て覚えているし、未だに許せない事も沢山あります。
誰かに言われた悪口も全部覚えています。
人間って嫌な記憶は残りやすいんだって誰かが言ってました。
でも、必死に一日を過ごしていたら、そんな事いつか吹っ切れちゃうタイミングが来るんだと思います。
最初に言ったように、「学校行くしかない、その選択肢しか無いんだ。」と思ってた時は本当に苦しかったけど、適応指導教室やミアキスといった「別の場所」を選ぶことが出来て、私は日々を乗り超えることができました。
めちゃくちゃ暗黒期を過ごしてたはずなのに、必死に一日を過ごしてたらいつの間にか色々な人に出会ってて、色々な人の話を聞いて、沢山の選択肢に出会ったら吹っ切れちゃった。
選択肢は、あればあるだけいいんだと思います。
いっぱい選べるって大事だなと。
いま私は、好きなことを頑張りたい、周りの人を大事にしたい。
私がそんな風に考えられるなんて中学時代は夢にも思ってなかったので、この気持ちを大事にしていきたいものです。
なんとか高校も卒業できました!
ダンスをしたり、演技を習ったおかげで仲間ができたり、大好きな友達と一緒に出かけたり中学時代を考えたらびっくりするくらい動けるようになりました
私の描く将来
今、私はたくさんやりたい事があります。
ダンスをもっと頑張りたい、習っていた演技を活かせる何かがしたい、もっと色々な人に会ってみたい、海外に行ってみたい。
大きいことから小さいことまでそれはもう色々。
その中の1つに、いつか山梨に学校に行けなくなった子供の居場所を作りたいと思っています。
すぐにではなく長い時間をかけてじっくりゆっくりと、学校に行けないことで自分で自分の人格を否定する様な事が無いような場所を作りたい。
東京にはフリースクールだったり適応指導教室だったり山梨よりたくさんの選択肢があります。
その選択肢を山梨でも選べるようにしてあげたい。
学校に行けなかったことがマイナスではなくなったら素敵だなぁと思っています。
私の将来をイメージしたら明日も楽しく生きれそう。
素敵な未来しか見えない!(言霊ってあると思う)
最後に
私がこの記事を通して伝えたかったことは、ボロボロだったけど、環境が変わったら意外と楽しく生きられちゃった的な。
苦しくても意外となんとかなっちゃうよ的な。
この経験は本当に苦しかったけど、今では糧です。
学校に行けなくたって可哀想なんかじゃないし、ダメな奴なんかじゃないし、楽しく生きられる。
これが少しでも伝わっているなら這いつくばって書いた甲斐があります。
そしてここまで読んでくれた方、あなたの大切な時間を私の記事に費やして頂けて本当に嬉しく思います。
ありがとうございました!
読んでくれた方の参考に少しでもなりますように!
それではこの辺で!