落語の力を信じて
春風亭弁橋は山梨県韮崎市出身。落語芸術協会所属春風亭柳橋一門の二ッ目(※)です。師匠は現在落語芸術協会の副会長ですが、弟子の弁橋ときたら・・・。
落語を通して地域社会なんぞを語り韮崎の過去、現在、未来を語ろうってんだから実に滑稽な話です。
いつもは口を動かしお客様に向けお話を申し上げるところではありますが、今回はパソコンの画面に向かい指を動かしお客様にお話を致したいと思います。
(※)落語界における階級で前座、二ッ目、真打の三階級ある。前座修行を終え独り立ちしプロの落語家として活動できる。また、羽織、袴の着用が許される。
久しぶりの韮崎に帰ってきて
久しぶりに韮崎に帰ってきたとき、韮崎駅前の風景が明るく見えました。それは四年間の前座修行を終え二ッ目に昇進し、新たなスタートを切り期待に心を膨らませていたからなのでしょうか。
・・・こんなキラキラした文章は私には似合いませんね。
実際は、アメリカヤのネオンが復活し、「アメリカヤ横丁」という呑み屋街の明かりが煌いていたからでした(呑むのが好きな私は「呑み屋街」って言葉だけで目が煌めきますが)
それから、今までには少なかった「韮崎を良くしよう」「魅力のある町にしよう」という団体が、なんといくつも設立されていることにも気が付きました。二ッ目になり自由を得た私が郷里を歩き、人と話す中で、新たな韮崎が生まれていることを感じました。そうして、明かりが消えかけていた韮崎に、新たな明かりが燈り始めて居ることを知るのでした。
そんな新しくなっている韮崎を知ってしまった私は過去の韮崎を振り返り、そして未来の韮崎を想ったのです。そんなお話の前に、まずは自分春風亭弁橋、落語について振り返ってみたい思います。
落語家ってなに?
そもそも落語家とは何でしょう。辞書によれば、
落語家:落語を職業とする芸人。噺家。
なのです。実に辞書らしい説明です。面白くもなんともない。
弁橋辞書には。
落語家:口先を使い聴衆を笑わせ、時には涙させる。主に落語を語り、噺や笑い聴衆と真剣に向き合い喋るときには決してそれを表に出さないようにし、話芸というものを極めようとする芸人。噺家。
小難しいな…。いいや。
落語家:落語を話す芸人
これでいいでしょう。
それから落語ってなんだろうか。
落語:こっけいな話の終わりに、おちの付いている寄席演芸。
これも物足りないと思ってしまう私。弁橋辞書には。
落語:江戸から現代に至るまでの風俗、人情、人と人との繋がりを感じられ、日常と非日常が共存した可笑しみのある話にオチのついた大衆芸能の要素が多く含まれた伝統芸能。
うん。今度は長ったらしいですね。いいや。
落語:聴けば分かる!
こんな辞書は役に立ちません。ここの部分を数年後読み返したら顔から火を吹き出しそうな内容です。
このように落語を考える私は、どのように落語家へなっていくのでしょうか。
【弁橋となるまでの道:なみだの入門】
弁橋と落語。
私と落語の出会いは小学校低学年のことです。
NHK教育で放送されていた「にほんごであそぼ」の柳家花緑師匠演ずる「寿限無」が初めての落語でした。周りではその「寿限無」を暗唱することが流行っていたけれども私はどこ吹く風でした。実にひねくれたガキですね。
時を同じくして、小学校の図書室に川端誠先生の落語絵本が置かれました。その絵本を手に取ったことが、私の人生を大きく狂わせるのでした。
・・・と、そんな大げさなものではないのですが、落語に興味を持つきっかけとなりました。
また、20時以降テレビを見てはいけないという家族ルールがあり、暇を持て余した弁橋少年はラジオのスイッチを捻るのでした。
演芸番組を楽しんでいましたが一番興味を引いたのは「新・話の泉」の家元立川談志師匠でした。談志師匠の言ってることはさっぱり分かりませんでしたが、音から伝わる凄みやカリスマ性、知識の深さに虜になってしまったのです。そうして私は、落語の沼に飛び込みはまりこんでしまったのでした。
弁橋と落語と韮崎。
小中学生のころは図書館で落語のCDを借り、高校生になると小遣いを溜めてCDを買うようになりました。また、小学6年のころに落語の本を買いましたが、そこに書かれていた落語の歴史や落語家についての紹介以上に私の興味を引いたのは、『実際に落語を演じてみよう』という項目です。
私はそこで落語を聴く楽しみだけではなく、話す楽しみも知ってしまうのです。追い打ちをかけるように文化ホールで落語ワークショップが始まり、中学1年から参加するのでした。
師匠柳橋との出会いもこのあたりでした。
初めて見た時はまだ柏枝と名乗っているころです。ラ・ソバの小澤愛一郎さんが会長を務めるにらさき落語会が毎年師匠柳橋を中心とした落語会を開いていました。そのころ落語を生で聴けるのはこれくらいでしたので、よく通ってました。
そして、わたしが小学6年のときに師匠が柳橋を襲名し、その襲名披露公演を観に行くという運命があるのでした。「運命」ジャジャジャジャーン。それは違う。
公演を観に行ったことによって、そこから師匠と私の不思議な縁が繋がるのでした。
そして高校生になると、噺家になりたい欲が最高潮になって、師匠選びも始めました。
高校2年の学校の芸術鑑賞会で講談師・人間国宝である一龍齋貞水先生がいらっしゃいました。私はそのクラスメイトとは分かち合えない興奮を抑えながら、会場で貞水先生の登場を心待ちにしていたのです。
プログラムは、講談解説(一龍齋貞橘)→落語→色物(紙切り林家正楽)→講談(一龍齋貞水)というもので中に落語も含まれておりました(敬称略)
その落語として出演したのが師匠柳橋でした。ほぼ毎年見ていた事もあり本音では他の師匠が観たかった…。(さすがに師匠に怒られるかな。)
しかしここに運命を感じてしまったのです!!
さて、その運命はいったいどのようになるのでしょうか。
弁橋大学受験⁉
2015年3月8日。この日は霧雨が降る日でした。
私はパソコンの画面を穴が開くほど見ていました。別に卑猥な画像を見ていた訳ではありません。数字を探していました。受験番号。この私も同年代と同じように大学受験をしました。本気でやってました。そこに私の番号が…。有りました。嬉しかったしホッとしました。
そこで私は、落語家になることを決めたのです。
「は?普通は大学に行くだろ!!」と思うでしょうが、私にとって大学受験は学業の一区切りでした。受かっていなければ落語家になっていません。では何になっていたか…。分かりません!!
その一年間、私は『落語断ち』というのを行っておりました。そのため私がその発表会に参加したのは観客として。これが観客としての最後の日でした。そこで講師の春風亭柳之助師匠に入門の相談をし、師匠柳橋に入門することを決心したのでした。
弁橋、門を叩く。
翌日3月9日。梅が咲き桜の蕾が膨らみ始め、昨日の雨で町がキラキラと輝いていました。その日は私は、師匠柳橋に会うために韮崎を出るのでした。
噺家の入門と言いますと、弟子入りしたい噺家の出演している寄席やホール、自宅に伺いお願いをするのが通例で、私は師匠柳橋宅へ行くことにしました。噺家と言えば東京住まいであろうとお思いでしょうが、うちの師匠は茨城県の古河。うん。遠い。
師匠の家に着き呼び鈴を押す。師匠のおかみさんが対応してくれました。
その日師匠はうちに居らず、翌日師匠が東京の赤羽で用事があるということでした。おかみさんは、用事の後で会うことを取り計らってくれ、帰り際「ラーメンでも食べて」と千円をくれました。その千円はいまでも使わずお守りとして手帳に挟んであります。
さて、翌日10日、赤羽の喫茶店で師匠に会い、そこで二時間程でしょうか師匠と話をするのでした。今振り返ると顔から火が出るほど、いや、マグマが出るほど恥ずかしく生意気な事を、なんのためらいもなく言い放っておりました。反省しろよ。俺。
その日はなにも答えもなく韮崎に帰るのでした。その日赤羽から新宿へ向かう電車の中で見た夕焼けは本当に綺麗なものでした。
弁橋親父と喋らない。
数日すると師匠から連絡が掛かってきました。なんと入門が許されたのです!!
普通噺家の入門というと何度も何度も通い、許されるというのが多いのですがそうではなかった。このガキを何度も通わせるには可哀そうだという師匠の優しさだったのでしょうか。さて、このことを親父に話すと親父は激怒、激昂、激情!!なにもこんなに並べることはないのですが。
いままで親父がこんなに怒っている姿を見たことが無いというくらい怒った。親父にも相談をして家を出たのに何でだ!!という怒りと悔しさと、何とか親父の思いを受け入れようとか、心の中に渦巻くいろんな感情。
そして、噺家になるのを諦めようと思うのでした。夢が叶い煌く虹色の世界が一瞬に無色の世界に一変しました。それから親父も口を利かない顔も合わせないという日が続くのでした。
一週間程してからでしょうか。親父から居間に呼ばれ入門を許してもらうのでした。
ここからが波乱万丈面白いところですが、お時間が一杯いっぱい。これじゃあ今大人気講談師の伯山(元松之丞)兄さんですよ。まあ噺家ですから人情噺っぽく。
これから師匠柳橋に入門をいたしまして「名人・弁橋」(自分で言うなって。)となっていく弁橋一代記(そんなものないだろ!!)のうち「なみだの入門」の一席でお開きと致します。こんな終わり方でいいのか?
韮崎と私について
ここまでは私の入門までの話をしてまいりましたが、昔の話についてはこれでお仕舞い。ここからは韮崎と私について、はなしをしていきましょう。地元韮崎に対して思うことを思いつくままに書いていくので、気になるところをじっくり読んでいただければと思います。
故郷韮崎を離れて考えたこと
私は噺家になり東京に住むわけですが、なんの繋がりのない場所は寂しいものでした。
田舎のころと違い近所付き合いもなく人に会っても挨拶をしない。反対に、道行く人皆に挨拶していたらキリがない。
韮崎に住んでいた頃は顔見知りではなくても挨拶をするというのが学校の教えみたいなところがありました。そこから生まれる温かさ、これは何ともいいものでした。よく会うようになると話しかけられたりと人と人の繋がりを感じるものでした。
まさに落語の世界観がそこにあります。
年寄りの隠居さんのところに若い熊さん八っぁんが話を聞きに行く、馬鹿な与太郎を、親戚だけではなく近所の人見知らぬ人が可愛がってやるこの世界観です。前座のころは楽屋以外に知り合いはなく、実に寂しいものでした。今では東京にも顔見知りが増え挨拶をするようになり、応援して頂けるようになり、一層頑張ろうと思います。挨拶の力ってすごいですね。
韮崎に戻ってきて気付いたこと
二ッ目に昇進し韮崎に戻って来た時に驚いた。なにがって、すっかり元気がなくなっていた韮崎駅前に明かりがついて賑わってるということです。毎回帰って来ると、そこらへんで呑んでしまいますが。
それから、活気のある若手の団体がいくつも設立していることにも驚きます。若者が生み出す活気が、町に力を付けているように感じました。落語界でも、入門をする若者がいるから落語は無くならないとよく言われます。
落語において若い人たちと言いますと、「隣町内に負けたくない」というので色々と行動をいたします。錦の袈裟や百川などで出てきますが、あんまりうまくいったためしはないのです。といって仲が悪いわけじゃない。楽しく遊びたい、女の子の前でいい恰好をしたいという目的の元の行動ではあります。
そこは参考にしなくて良いですが、今韮崎で活躍している団体には是非、「うちの団体の方が韮崎をよくする」と、いい意味で競い合って貰いたいと思います。そこになにかが生まれるかもしれません。
私が小学生のころから、韮崎は寂しくなっていったように思います。お祭りは分かりやすい例で、どんどん縮小化していきました。かつて若宮さんのお祭りは、本町通りの交差点から若宮さんまで出店が続き、各町内から神輿が集まっていました。それが今はガード下から若宮さんまでの範囲に縮小しています。
市制祭も同様に、下宿の交差点から水神町の先まであったものが縮小し、活気もなくなりとても寂しい思いをしました。
しかし今は、地域を盛り上げようという若者の力が感じられるようになりました。ふたたびあの時代、私が育った子供のころのようなどこかキラキラとした活気のある韮崎が復活するのではないかという楽しみが出来ました。私もそのなかのひとりになれればいいなぁ。
文化の町韮崎
文化というと、「芸術」「学問」「教育」といったものもあります。私が言いたいのはそういったものだけではなく「日常」という文化です。買い物に行ったり挨拶したり立ち話したり飲みに行ったり畑仕事をしたり野菜を配ったりと、人と人が触れ合うことで生まれる日常、これも「文化」であると思います。
今ちょうど韮崎駅周辺は、新たなものが生まれています。私が韮崎に帰ってくると必ずあの辺りを歩きますが、よく人が集まっています。そのときに感じるのは、子供の頃になかった文化が生まれているということです。
しかし同時に、ここには若い人が居る一方で、お年寄りがいないなと感じます。これでは弱いと思うのです。
落語でも分からないことがあると熊さん、はっつぁんの若者が隠居さん大家さんというお年寄り経験者のもとに必ずものを聴きに行きます。落語のほうでは教わった通りやると全くうまくいかないですが(笑)しかしこれは落語ですからね。
でも、実際どうでしょうか。私は「口うるせぇなぁ」「そんなの現代に合わないよ」なんて思うこともありますが、いざやってみますと言われたことは活きていることが多いのです。また、そういった今昔が混ざり合うことでより太い強い文化になるのではないかと思います。そしてこれを繰り返し末永く続く文化になると思います。
若い団体が出始めた今より強化なもの、良い韮崎、未来に繋がる韮崎が進み始めたのではないかと思うのです。
オイラは親善大使だ!
この私、恐れ多いことに「武田の里・サッカーのまちにらさき親善大使」を委嘱していただきました。何をするかと言いますと「韮崎」を「親善する」というのが私の職務なようでして。これは私がマクラ(落語の導入)で使うものです。私の韮崎を振り返ってみましょう。
私の幼少期、韮崎は活気に満ちていました。特にお祭り。大きな祭り小さな祭り関係なく賑やかでした。老若男女雑踏したり、という感じでウキウキしました。
それがいつごろからか規模は縮小し、活気はなくなり私の足も遠のくようになっていきました。それは、なにかから離れたいという思春期特有の気持ちではなく、寂れていくものを見たくない、楽しい思い出のままにしておきたいというものだったのかもしれないです。
そのころの韮崎に戻したいという気持ちはありますが、「私の力で戻す」というのは、私の過去への固執だと思います。過去の韮崎に戻すのか、新たな韮崎を作っていくのか、衰退していくのか、大きく発展していくのかは私が考えるよりもそこに住んで生活をしている地元の人が考えて行動に移して頂きたいと思います。親善大使として私はもっと韮崎の良さを知り、色々な場所で韮崎の事をはなし、興味を持って貰い、多くの人に来てもらえるよう宣伝をしていきたい。韮崎を親善し宣伝していきたい。
韮崎を一つに。変人を集めた『編人会』
なにもそんな大それたものではないのですが、SNSで「韮崎編人会」なるグループを作りました。韮崎の人たちと呑んでいて勢いで作っただけなんですが、目的としては韮崎に関する変人を集めて何か面白いことの情報交換ができたらなぁなんて思いです。
韮崎に居れば韮崎の情報は簡単に得られますが、居ない人にとっては得るのがなかなか難しいです。そこで一つの場所にそういう情報が集められ、そしてそこで何か議論が生まれれば韮崎が面白くなるのではないかと思うのです。だって変人が集まっているのですから。名前の由来は単なる「変人」と、組み合わせるやまとめるの意味を持つ「編」を合わせただけです。シャレを説明すると面白くない!!
落語の方にも「寄合もの」というのがあります。「饅頭怖い」「酢豆腐」「寄合酒」など若い連中が集まって話が進むものです。
やはり、人が集まると何かが起こるのです。うまくいくかいかないかは別として、そこで何かが起こる。これって面白いと思いませんか?それを楽しいと思った人たちが増えれば増えるほど、活気のある韮崎ができるのではないかと思います。毎日お祭りみたいな韮崎なんていいですよね。
わたしの夢
今までは私の過去と韮崎の過去、未来を書いてきましたがここでは私の将来について書いてみます。
「落語を身近に」これが私の夢です。
日常会話で落語の事や落語家の名前が出てくる、マスメディアで寄席中継などが復活する。私ひとりの力では間違いなく無理です。我々落語界が一丸となって目指さなければ難しいと思います。そのなかの一つの歯車に、できれば重要な歯車になりたいと思っています。
稽古、公演を繰り返し自分の力を付けるとともに落語の面白さ良さを広めることをしていきたいです。そして、日本に落語文化を根付かせたいです。その前に韮崎に落語文化というものを根付かすことができたらと思います。一つのモデルケースを作ることが出来ればいいなと思っています。
その一段階として毎月落語会を開催しておりました。コロナ流行により開催できない状況でしたが、落ち着いたら、また毎月~毎週の頻度で落語会を開催出来るようにしたいと思っております。
コロナくんさよなら
今回の新型コロナにより、我々噺家は甚大な被害がありました。落語会となると人が集める事になるので中止が相次ぎ、また今まで通りの再開の見込みも得ることができない状況です。
私も毎月続いていたニコリでの落語会を中止にせざるをえませんでした。しかし、ここでゼロにするのは悔しいので、YouTubeを使って落語の生配信をしてみました。周りの落語家も始め、特に力のある師匠方が始めることで、私のような若手も手を出しやすくなりました。動画配信を取り入れたことは、落語史に新たな歴史を刻んでいると思います。
配信というものはどこでも聴くことが出来るという利便性はありますが、やはり「落語という演芸はやっぱり生のほうがいいものだ」とも思います。カメラ越しですとなにか物足りないというのが私の感想です。
演者として目の前にいるお客様の反応を得ることができ、お客様と対面するという独特な緊張感がたまりません。また、お客様からも生で聴くほうがいいよねという意見を多く頂きました。やはり、落語もビールも生が一番だそうです。私は瓶派ですが。
まとめ
やはり書いておりましてもうまく言葉にできません。いかに私の落語が面白くないかお分かりいただけたかと思います…。やめてくれ(笑)
さて、これからの韮崎に求めたいそして一緒にあゆみたい道は・・・(そういえば出身校韮崎小学校の通信簿は「あゆみ」でありました。うん。どうでもいい。)
現在は東京に住んでおりますが、韮崎で育ったものとしてなにかで恩返ししていきたいと思っております。
私ができるのは落語という言葉を使う商売だけです。その言葉を使い文化の継承や活気を韮崎に与えられるようになりたいです。既にいろいろな団体が将来の韮崎のために動いています。私はその若者の活気溢れる町の歯車の一員になりたいものです。そして、落語文化を根付かすことができたら万々歳です。
え、次の人の支度ができました?いや、もう少し書きたいんですけど。え、もういいの。マクラしか喋ってないよ。落語一席もやってないよ。それは会場に行って聴いてくれ。まあそらそのほうがありがたいけども。あ、そう?じゃああたくしはこの辺で失敬いたしましょうかね。
お後がよろしいようでm(__)m