じつは多芸多才!?甲斐の虎と恐れられた武将の素顔とは|武田漬#2

第一夜では、武田家が源氏の名門であり、韮崎市は武田家発祥の地であることが判明。今回は、いよいよ【エピソード信玄公編】に突入します!

戦乱の世で「甲斐の虎」「神様を倒した男」と恐れられた武田家19代目当主・武田信玄公は、一体どのような人物だったのだろうか…。前回に引き続き韮崎市教育委員会の文化財担当・半澤直史さんに聞きました。

※武田家のことをまったく知らない記者(松野)が、韮崎市教育委員会・文化財担当の半澤直史さんと、ゆ〜るく武田トークする様子を、数回に分けて不定期でお届けします。

博識・多芸多才な戦国武将!一流の知識人としての顔

じつは、外国語もペラペラのインテリだった!?

↑第一夜の記事はこちらからチェック!

松野
第一夜終盤で、信玄公は神様を倒した男と語り継がれていたとおしゃってましたが、どんな人物だったのか詳しく教えください!

 

半澤さん
一般的に武田信玄という名を聞くと、甲府駅の南口にある武藤敬司のような銅像を想像して、いかついイメージを持つと思うんですけど…

 

ご存知、甲府駅のシンボルマーク

半澤さん
実際は真逆で、とても教養深い「知識人」なんですよね。

儒教などの中国古典をはじめ、仏教や宗教知識が豊富。おまけに、漢詩や和歌への造詣も深く、水墨画や茶道といった芸術にも優れていたと伝わっています。

多彩な人だったんですよね。調べれば調べるほど、やっぱりこの人(信玄公)はすごいな〜ってエピソードしか出てこない。

 

松野
非の打ち所がない秀才…(汗)。

 

半澤さん
でしょ。中でも特に、すごいな〜と感じるのは漢詩の読み書きが得意なところ。漢詩が読めるということは…

中国語が堪能だったということなので。

 

松野
つまり、現代に置き換えると英語がネイティブ並み話せて読み書きできる人ということですね!

でも、現代よりもはるかに情報を手に入れにくい時代で、どうやって漢詩を覚えたのでしょうか?

 

半澤さん
おそらく、東光寺など甲府周辺にあったお寺の僧侶たちと親しかったからかもしれません。

当時の僧侶は、一流の知識人ばかりで、戦国時代の影の権力者と呼ばれることもあります。それに、中国を行き来するくらいですから、中国語は堪能なはずです。

 

松野
お坊さん、すごいッ!

 

半澤さん
ですね〜。もしかすると、信玄公よりお坊さんの話をした方が面白いかもしれない(笑)。

当時の政治では、宗教勢力をいかに味方にするかも重要なポイントでした。僧侶たちと交流していく中で、中国語をはじめ、ありとあらゆる知識と教えを受けていたのかもしれませんね。

 

知られざる?ポエマーな一面も…

松野
先ほど「信玄公は、漢詩と和歌が得意だった」とおっしゃっていましたが…どんな詩を残しているんですか?

 

半澤さん
例えば、あの風貌で「甲斐の山々の風景は躑躅ヶ崎館(現在の武田神社)から見た風景は、美しい女性のような景色である」と詠んだ漢詩(春山如笑)があります。

 

春山如笑の全文
簷外風光分外新
捲簾山色悩吟身
孱顔亦有蛾眉趣
一笑靄然如美人

簷外の風光 分外新たなり
簾を捲いて 山色吟身を悩ます
孱顔も亦 蛾眉趣有り
一笑靄然として 美人の如し

[現代訳]
庇の外に広がる風景は自分の持分を越えてまで新たである
簾を捲いて見る山の色の美しさを何と詩に吟じたらいいのか悩む
山のあざやかなる景色もまた美人の眉のような趣がある
雲や霞のたなびく様も美人の笑うようである

 

他にも「たちならぶ甲斐こそなけれ桜花 松に千歳の色はならわで」も信玄公が詠んだ有名な和歌の一つです。

 

松野
わお!ロマンチックな歌ですね。

 

ちなみに、当時の山梨には京都から公家や貴族、朝廷の遣いが頻繁に訪れていたそうで、貴族の嗜みとして歌会を開いて接待していたようです。

 

松野
……現代でいう、接待ゴルフのみたいな?

 

半澤さん
あ〜そんな感じです(笑)。

現代でも、政治家や官僚の人たちが地方を訪問した時、老舗の料亭とかでおもてなしとかしますよね。

 

松野
戦国武将って、和歌をすらすらと詠めるものなんですか?

 

半澤さん
意外かもしれませんが、織田信長や豊臣秀吉、そして徳川家康も…この時代の武将達で和歌を詠める人は結構いますよ。実際にその人が詠んだと伝わる和歌が残っていたりするんですよ。

昔の西洋貴族が社交ダンスを嗜んでいたように、「和歌=貴族の嗜み」だったのかもしれませんね。

 

松野
詠めることが標準なんですね。

 

半澤さん
それでも、信玄公ほど博識で多才な戦国武将は少ないんじゃないかな?漢詩が詠める武将なんてほとんどいないですし。

頭が切れるし、知識も豊富。おまけに芸術も嗜んでいて、武将としてもしっかり功績をあげている…

自分の理想に近づくためならなんでもやる…ストイックな男ですよね〜。

 

松野
並々ならぬ努力と気力が必要ですよね。

 

半澤さん
これは、あくまでも個人的見解なんですが…武田家は鎌倉時代から続く名家であり、信玄公はそれを率いる当主。

「将軍家と同じ血筋の一族だ」「武田は源氏の一族なんだ!」っていう家柄意識も強かったんじゃないかな。

 

松野
そのために、様々な知識を身につけたと?

 

半澤さん
一族の存続には統率力が必要であり、古参の家臣に対しても威厳を示す必要があった

最低限の知識や芸術を身につけるため、熱心に学んだのかもしれませんね。

もちろん、「武田家の血を途絶えさせず、後世に残さなければならない!」という使命感もあったと思いますが。

 

宣教師もびっくり!信玄公は気遣い上手で愛情深い人格者

「部下に大いに慕われる」人材発掘・育成の天才

武田家には、古くから仕える有能な家臣が多く、信玄公の時代には「武田二十四将」と呼ばれ、その名を世にとどろかせていたそう。

現代社会でもそうですが、ただ仕事ができるだけでは部下に慕われません。ましてや、生死がかかっている戦乱の世ならば尚更、それに値する主人でなければ命は預けたくないはず。

有能な家臣を従えていた信玄公には、どのような魅力があったのでしょうか。

半澤さん
諸説ありますが…信玄公は、人材の発掘と適職を見極める達人でもあったといわれています。

信玄公が発言したかどうかは検討の余地ありですが、「こいつ槍とか弓は使えないけど、そろばんや計算は得意だな」「頭は悪いけど、武術に優れているな」など、どんな人材でも見捨てず、長所を見つけて育てていたようです。

 

松野
わ〜、理想の上司像。

 

特に見所がある!と思った若者は側近にして、軍事や民政についての経験を積ませていたとか。

まさに、「武田二十四将」に名を連ねる武将たちは、信玄公の側で様々なことを学びながら育った人材なんです。

 

松野
まるで「人間大事の哲学」を実践した、パナソニック創設者の松下幸之助みたい。

 

半澤さん
他にも、とある戦で家臣が守る城を訪れた際に「自分が(あなたの城へ)伺うからといって、もてなしの準備や城の整備を過度にしなくてよい。」と伝えている文書が残っています。

 

松野
「もてなさなくてもいい」とは?

 

半澤さん
例えば、任侠映画やTVゲームの『龍が如く』などの世界をイメージしていただくとわかりやすいと思うんですが…

親分がお勤めから帰ってきたら、手を止めてすかさず挨拶をするシーンがあったりしますよね?

 

松野
…下っ端たちが「お勤めご苦労様ですッ!」と、すごい勢いで頭を下げているシーンが浮かんできました(笑)。

 

半澤さん
それですね〜(笑)。

信玄公は家臣たちに対して「そういう余計な気遣いは無用だ」と伝えていた。

戦乱の世ですし「そんな余裕があるなら戦いに専念してほしい」という思いもあったのかもしれませんね。

 

松野
主人に気を使っている暇があるなら修行に励み武功を挙げろ!と(笑)。

 

半澤さん
その時代はヨーロッパからキリスト教を伝える宣教師が頻繁に来日していました。

その人たちが残した書物の中にも「武田信玄は部下に大いに慕われている」と記述されていたので、冷酷非道な恐ろしい人物ではなかったといえますね。

一方で、ちょっとしたミスでも罰する厳しい一面もあったみたいですけど(笑)

 

父の深い愛、娘に向ける信玄公の心遣い

松野
信玄公って戦好きなイメージでしたが…心遣いができる方だったのですね。

 

半澤さん
そうですね。信玄公の心遣いは家族にも健在だったようですよ。

例えば、長女の安産祈願病気平穏の手紙を送ったり、盲目である次男には眼病平療を祈ったり…ちゃんと父親らしい愛情深い一面もあるんです。

 

松野
…聞けば聞くほど私の中の信玄公のイメージが、いい意味で崩れてきました!

 

半澤さん
一般的に、信玄公の名を耳にして、戦国最強の武将という印象が強いと思いますが…

これらはあくまでも江戸時代から作られたイメージに過ぎません。

実際は、頭脳明晰で多芸多才なカリスマ的な戦国武将。

しかし、それ以上に周囲に対して分け隔てなく気遣いができる愛情深い人だった。

だからこそ、現代でもこれだけ多くの人に慕われているのかもしれませんね。

 

次回予告!

「ここまで大掛かりな街づくりをするには大量の知識と情報がないと難しい。
それを実現した信玄公は、相当なやり手だよ…」(半澤さん)


さて!第三夜では、武田信玄公、最大の功績といっても過言ではない「甲府の街づくり」についてトークしたいと思います。

半澤さんによると、この時代にこれだけ立派な街を完成させたことはすごいことなんですって。次回もどうぞ、お楽しみに〜。

 

編集後記

第二夜では、信玄公の人となりに触れるお話を中心に会話を進めました。多くの人が信玄公に対して、「勇猛果敢で戦国最強の武将!」こんなイメージを持っているかと思います。

しかし、その真の姿は、文武両道で非の打ち所がない絵に描いたような秀才だった…。これまでのイメージとのギャップに驚かれた方もいるのではないでしょうか。

一説によると、この時代の肖像画は、強い存在であることを示すため、わざと恰幅の良い姿で描かれることもあったそうな。信玄公もそうだったという確証はありませんが、もしそうなのだとしたら…人が作り上げたイメージが放つ影響力はすごいものですね。

現代を生きる私たちもまた、想像だけでモノを語るのではなく、実際にみて触れて感じたものを大切に生きていきたい。そう強く願った取材でした。

 

半澤直史
韮崎市教育委員会・文化財担当

千葉県出身。大正大学大学院で修士号を取得後、縁あって韮崎市で働くことに。戦国無双をはじめとするゲームや漫画などサブカルチャーがきっかけで歴史にハマる。じつは、武田信玄より、上杉謙信のほうが好き。