第一夜では、武田家が源氏の名門であり、韮崎市は武田家発祥の地であることが判明。今回は、いよいよ【エピソード信玄公編】に突入します!
戦乱の世で「甲斐の虎」「神様を倒した男」と恐れられた武田家19代目当主・武田信玄公は、一体どのような人物だったのだろうか…。前回に引き続き韮崎市教育委員会の文化財担当・半澤直史さんに聞きました。
目次
博識・多芸多才な戦国武将!一流の知識人としての顔
じつは、外国語もペラペラのインテリだった!?
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ご存知、甲府駅のシンボルマーク
多彩な人だったんですよね。調べれば調べるほど、やっぱりこの人(信玄公)はすごいな〜ってエピソードしか出てこない。
中国語が堪能だったということなので。
でも、現代よりもはるかに情報を手に入れにくい時代で、どうやって漢詩を覚えたのでしょうか?
当時の僧侶は、一流の知識人ばかりで、戦国時代の影の権力者と呼ばれることもあります。それに、中国を行き来するくらいですから、中国語は堪能なはずです。
知られざる?ポエマーな一面も…
捲簾山色悩吟身
孱顔亦有蛾眉趣
一笑靄然如美人
簷外の風光 分外新たなり
簾を捲いて 山色吟身を悩ます
孱顔も亦 蛾眉趣有り
一笑靄然として 美人の如し
庇の外に広がる風景は自分の持分を越えてまで新たである
簾を捲いて見る山の色の美しさを何と詩に吟じたらいいのか悩む
山のあざやかなる景色もまた美人の眉のような趣がある
雲や霞のたなびく様も美人の笑うようである
現代でも、政治家や官僚の人たちが地方を訪問した時、老舗の料亭とかでおもてなしとかしますよね。
昔の西洋貴族が社交ダンスを嗜んでいたように、「和歌=貴族の嗜み」だったのかもしれませんね。
自分の理想に近づくためならなんでもやる…ストイックな男ですよね〜。
「将軍家と同じ血筋の一族だ」「武田は源氏の一族なんだ!」っていう家柄意識も強かったんじゃないかな。
最低限の知識や芸術を身につけるため、熱心に学んだのかもしれませんね。
もちろん、「武田家の血を途絶えさせず、後世に残さなければならない!」という使命感もあったと思いますが。
宣教師もびっくり!信玄公は気遣い上手で愛情深い人格者
「部下に大いに慕われる」人材発掘・育成の天才
武田家には、古くから仕える有能な家臣が多く、信玄公の時代には「武田二十四将」と呼ばれ、その名を世にとどろかせていたそう。
現代社会でもそうですが、ただ仕事ができるだけでは部下に慕われません。ましてや、生死がかかっている戦乱の世ならば尚更、それに値する主人でなければ命は預けたくないはず。
有能な家臣を従えていた信玄公には、どのような魅力があったのでしょうか。
信玄公が発言したかどうかは検討の余地ありですが、「こいつ槍とか弓は使えないけど、そろばんや計算は得意だな」「頭は悪いけど、武術に優れているな」など、どんな人材でも見捨てず、長所を見つけて育てていたようです。
まさに、「武田二十四将」に名を連ねる武将たちは、信玄公の側で様々なことを学びながら育った人材なんです。
親分がお勤めから帰ってきたら、手を止めてすかさず挨拶をするシーンがあったりしますよね?
信玄公は家臣たちに対して「そういう余計な気遣いは無用だ」と伝えていた。
戦乱の世ですし「そんな余裕があるなら戦いに専念してほしい」という思いもあったのかもしれませんね。
その人たちが残した書物の中にも「武田信玄は部下に大いに慕われている」と記述されていたので、冷酷非道な恐ろしい人物ではなかったといえますね。
一方で、ちょっとしたミスでも罰する厳しい一面もあったみたいですけど(笑)
父の深い愛、娘に向ける信玄公の心遣い
例えば、長女の安産祈願や病気平穏の手紙を送ったり、盲目である次男には眼病平療を祈ったり…ちゃんと父親らしい愛情深い一面もあるんです。
これらはあくまでも江戸時代から作られたイメージに過ぎません。
しかし、それ以上に周囲に対して分け隔てなく気遣いができる愛情深い人だった。
だからこそ、現代でもこれだけ多くの人に慕われているのかもしれませんね。
「ここまで大掛かりな街づくりをするには大量の知識と情報がないと難しい。それを実現した信玄公は、相当なやり手だよ…」(半澤さん)
さて!第三夜では、武田信玄公、最大の功績といっても過言ではない「甲府の街づくり」についてトークしたいと思います。
半澤さんによると、この時代にこれだけ立派な街を完成させたことはすごいことなんですって。次回もどうぞ、お楽しみに〜。
編集後記
第二夜では、信玄公の人となりに触れるお話を中心に会話を進めました。多くの人が信玄公に対して、「勇猛果敢で戦国最強の武将!」こんなイメージを持っているかと思います。
しかし、その真の姿は、文武両道で非の打ち所がない絵に描いたような秀才だった…。これまでのイメージとのギャップに驚かれた方もいるのではないでしょうか。
一説によると、この時代の肖像画は、強い存在であることを示すため、わざと恰幅の良い姿で描かれることもあったそうな。信玄公もそうだったという確証はありませんが、もしそうなのだとしたら…人が作り上げたイメージが放つ影響力はすごいものですね。
現代を生きる私たちもまた、想像だけでモノを語るのではなく、実際にみて触れて感じたものを大切に生きていきたい。そう強く願った取材でした。
千葉県出身。大正大学大学院で修士号を取得後、縁あって韮崎市で働くことに。戦国無双をはじめとするゲームや漫画などサブカルチャーがきっかけで歴史にハマる。じつは、武田信玄より、上杉謙信のほうが好き。