最先端の政治システムを採用?信玄公に学ぶ500年続く城下町のつくり方|武田漬#3

第一夜の冒頭では、韮崎市は甲斐源氏の発祥の地であり武田家のルーツであることが判明しました。しかし、武田信玄公が活躍した時代になると、武田家の拠点は甲府へと移っていきます。

武田家はどのようにして甲府の町づくりを進めたのでしょうか?今回も、韮崎市教育委員会の半澤直史さんに話を聞きました。

韮崎市教育委員会・文化財担当の半澤直史さんと、武田家のことをまったく知らない記者(松野)が、ゆ〜るく武田トークする様子を不定期でお届けしています。

父・信虎から引き継ぐ「甲府の町づくり」

信玄公が統治していた甲府は、2019年に開府500年を迎えました。そのはじまりは、永正16年(1519年)に、本拠となる躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)を、父親である武田信虎公が建設した頃にまで遡ります。

甲斐国の政治の中心部となる「新府中」として整備を進められた甲府は、現代も山梨県の県庁所在地として機能しています。信玄公は、どのようにして町づくりを進めたのでしょうか。

 

ーーー 第一夜で、韮崎市が”武田家発祥の地”だとおっしゃっていましたが、信玄は、なぜ甲府を拠点にしたんですか?

半澤さん
いきなり期待を裏切るような発言で、すみませんって感じなんですが…

実は「甲府を拠点にする!」って決めたのは、信玄じゃなくてお父さんの信虎なんです(笑)。

 

ーーー えっ!?(驚)…ずっと信玄が甲府を作ったと思っていました。

半澤さん
甲府って「 ≒ 信玄」 のイメージが強いですよね?(汗)

諸説ありますが…そもそも信虎が納めていた時代の甲府って、一連寺(現在の甲府城付近)に大規模な門前町があったものの、今みたいに整備がされていたわけではなくて…。

信虎が武田の棟梁になってから、躑躅ヶ崎館や市場を起点に町づくりをはじめ、その後、信玄が引き継いで精力的に発展・拡大させて甲府城下町」が完成したわけです。

甲府駅北口に佇む開祖・武田信虎の像

半澤さん
戦国大名が作った城下町って、現在でも都道府県の中心地になっている所が多くて、甲府もその一つといえます。

そう考えると、信虎と信玄は今の山梨県の礎を造った人ということになりますね。

父親の信虎の功績ってあまり浸透していないんですが、山梨県民の方(特に甲府の人)には是非、信玄とセットで"信虎"も覚えてほしいです。

 

ーーー 信玄公が行なった町づくりの、すごいところについて教えてください!

半澤さん
そうですね〜。お侍さんが住むところもあれば、現在の甲府城周辺でいうと、一連寺という有名なお寺には門前町もあって、一般の町人とかが行き来する市場もある。

新府中」と呼ばれるにふさわしい、立派な複合都市だったと思います。中でも、次の3つが特徴的ですね。

 

 

ーーー どれも初めてきく言葉ばかりです…。ぜひ、詳しく教えてください!

↑第一夜の記事はこちらからチェック!

信玄公が描いた理想の城下町「甲府」

室町幕府も思わずびっくり!先進的な城下町

信玄公が当主となり、武田家は精力的に甲府の町づくりを進めていきます。広い領域の設定・面的整備・市場の設置など、甲府の城下町には、この時代には珍しい工夫がたくさんあったそうです。

中でも、「信玄の館(躑躅ヶ崎館)の造りと甲府の道路のつくりがすばらしい!」と半澤さんは絶賛します。

 

ーーー まずは、「室町幕府の作法を真似た全国的に稀な城下町について教えてください。

半澤さん
甲府の躑躅ヶ崎館と、それをつなぐ道が京都の足利将軍家の館と京都の町によく似ているんですよ。

躑躅ヶ崎館は現在、武田神社として多くの人に愛されている。

ーーー つまり、意図的に将軍の住まいをイメージした町づくりを行なったと…?

半澤さん
その通り!甲陽軍鑑 でも、「武田殿の御殿は、公方家の作法成。(訳:武田氏のお館は、将軍家と同じ作り方をしている。)」と書かれているくらいなので、きっとそっくりだったんでしょうね〜。

よく見ると道路も京都の条坊を意識した碁盤の目のような作りになっているんです。

武田神社〜甲府駅の区間を意識して歩くと、何か新しい発見があるかもしれませんよ!

 

※Googleマップで武田神社周辺を散策してみよう!

半澤さん
それに、信玄の町づくりのすごさって見た目だけの話じゃなくて、室町時代の幕府が行なっていた政治システムを取り入れちゃってるところが肝なんですよね〜。

 

信玄公が導入した最先端の政治システム?

武田氏館跡からの「城下町の眺望」

ーーー先ほど話に出た「政治システム」について、詳しく教えてください。

半澤さん
室町時代の幕府には「在京制」という制度があって。支配下にある各地の大名や守護を頻繁に京都へ呼び寄せていたみたいです。

(鎌倉の在倉制も同様で、大名たちを鎌倉に呼び寄せていた。)

 

ーーー うわ〜。上司から「俺の家の近くに住みなさい」「毎週末、家族と顔を見せに来なさい」とかいわれたら…正直きついですね(笑)。

半澤さん
みんな嫌がりそうな制度だし、はじめは抵抗する人もいたみたいですが、徐々に皆さん従っていったようです(笑)。

あと、京都の上流階級の貴族たちに混じって和歌や茶の湯のようなハイカルチャーを楽しめたりできるから、案外そこまで悪い制度でもないような気はします。

 

ーーー 昔の人のコミュ力って、高いんですね(震)。

半澤さん
甲府の町づくりに話を戻すと…

武田家の支配下にある武将達を甲府に住まわせたというのは、この「左京制」を甲府でも行なったということです。

山梨県の他のエリアや長野県などに散らばっていた支配下にいる武将達を、定期的に甲府の城下町に呼び寄せて、新たに家臣となった武将達に対しては、妻やこどもたちを人質として甲府に住まわせることもあったようです。

 

ーーー …あの、すみません。どの辺りがすごいのか、全然ピンとこなくて…(汗)。

半澤さん
そうなりますよね…(笑)。

この話のポイントは、そもそも将軍様の政治システムを"甲府で採用"しちゃったところです。

半澤さん
現代で例えるなら、東京で行なわれている政治機関やシステムをまるごと山梨に移管して、山梨の統制を図ったということになります。

つまり、膨大な知識と莫大な資金がかかることなので、武将としての実力が問われるのはもちろん、権力や財力も兼ね備えていないと実現できませんよね。

現に同じ地理にある長野県でこれを行なった人は一人もいない。

信玄だからこそ実現できた偉業ということです。

 

ーーー なるほど!武田一族の名前や功績が、現代まで語り継がれている理由がわかってきたような気がします。

 

町づくりの鍵を握る「宗教勢力」とは…

長野の善光寺が全国各地にある秘密

第二夜で話していたように、信玄公は宗教知識への造詣が深く広く仏教を信仰したため、その教えを政治や軍政にも反映していたといわれています。

寺院・僧侶を崇敬し保護していた信玄公ですが、中でも甲斐善光寺の創建には特別な思いが込められていたようです。

半澤さん
甲斐善光寺は、長野の善光寺が川中島の戦いで焼けてしまうのを恐れて、本尊や宝類を移すために建てられたといわれてます。

…が、私は他にも理由があると思っていて…

 

ーーー といいますと?

半澤さん
長野(当時の信濃)を支配下に置こうとしたんだと思います。

当時の信濃の民にとって、生活の中心にあったものが神様であり、善光寺でした。

信玄は、その善光寺を自分の支配下である甲府に移すことで、「信濃の殿様は俺だ!」という政治的なアピールも兼ねていたのかもしれません。

 

ーーー なかなかの策士ですね…。
でも、どうして山梨に善光寺を建てるだけで信濃を支配下に置けるんですか?

半澤さん
善光寺って少し特殊なお寺で、寺院を善光寺と呼ぶのではなくて、本尊である一光三尊阿弥陀如来像(善光寺如来)が鎮座しているところを、善光寺って呼ぶんです。

 

本堂と山門は国の重要文化財にされています。

半澤さん
だから、信玄は本家本元である長野の善光寺にあった善光寺如来を山梨へ引越しすることで、そこを新たな善光寺と声高々にいえたわけです。

武田氏の滅亡後は長野市の善光寺に鎮座するまでに、織田信長徳川家康豊臣秀吉のところに行ったりと、全国のあちこちを転々としていたみたいですけど。

 

ーーー そこでも武将達が争っていたとは…(笑)。
現代でも多くの人から信仰されていますが、この時代から特別な力を持ったお寺だったということですね!

半澤さん
これは余談なんですが、比叡山延暦寺もそうで…

織田信長比叡山を焼き討ちされた時、延暦寺の覚恕法親王が信玄に再興をお願いしたそうなんです。

その時の移転候補地が身延山だったみたいです。結局話は流れちゃったようですけど。

 

甲斐善光寺では4月3日〜6月29日まで、ご本尊の善光寺如来阿弥陀三尊像(重要文化財)を拝観できる「御開帳」を開催中。
この期間だけは、特別にご本尊のお姿を直接拝むことができます。

 

宗教勢力を味方に!策士信玄公の思惑とは…

金手にある能成寺は甲府五山のひとつ

甲斐善光寺をはじめ能成寺など、いくつかの社寺を府中へと移転させつつ甲府の町づくりを行ってきた信玄公。なぜ、寺社仏閣にこだわる必要があったのでしょうか

そこには、甲斐の国を治めるために必要な力を味方につけるための工夫があったと、半澤さんはいいます。

半澤さん
専門用語で権門というんですが、中世って「武士・公家・寺社勢力」の3勢力が力を持っていたんです。

 

ーーー 寺社勢力って、僧侶や神主のことですか?

半澤さん
そうです!一部の寺院には、かなり強い力を持った「僧兵」と呼ばれる僧侶の兵士がいたみたいですよ。

例え神に仕える身であっても、争いが起これば武器をとって最前線で戦うわけです。

また、中世では、寺や神社といった場所が村人たちが駆け込む集会場の役割も担っていたんです。

 

ーーー 確かに、安心して避難できそうですね。

半澤さん
信玄は、甲府の城下町を作る時にも宗教勢力を自分の支配下に置くことを考えていたのではないでしょうか。

エリア毎にバランスよく寺社仏閣を建てることで、より京都のような町になりますし、同時に宗教勢力の統制も兼ねることができました。

まさに一石二鳥です。

武田氏研究会「甲府と戦国大名武田氏」より引用

ーーー 地図で改めてみてビックリ!甲府の中心には、こんなにたくさんの寺社仏閣があったんですね!

半澤さん
きれいな町づくりですよね。

これだけ計算しつくされて整備された「新府中・こうふ」です。

部下も宗教勢力も甲斐の民も…信玄はすべてを自分の管理下に置けたわけです。

加えて、各地からたくさんの人々が行き交う一大都市となり、現在の甲府の礎となったといえますね。

↑第二夜の記事はこちらからチェック!

今回のおさらい

半澤さん
ここまで3つのポイントを中心に、信玄のまちづくりについてお話ししましたが、これはまだ序の口ですよ〜。

すべてを語るには丸1日、いや2日以上は必要かな?(笑)

 

ーーー ぜひ、何かの機会で講演会をお願いします(笑)。
甲府の町づくりを通して、「なぜ、信玄公は現代でも多くの人から慕われるのか」という謎が解けたような気がします。

半澤さん
これだけ大掛かりな町づくり。

適当に進めることなんてできないので、多くの知識を身につけるため、相当な努力をしていたと思いますよ。

だからこそ、町づくりを実行した信玄という男は相当なやり手であり、戦国時代の伝説的存在なんだと思います。

 

次回予告!

信玄は「当主として守れないことがあったら自分もきちんと罰を受ける」しっかり筋を通す人。山梨という地域を必死に守ろうとする県知事みたいな人かな?(半澤さん)

 

第四夜はいよいよ信玄公パートの最終話!これまでの話をふりかえりつつ、信玄公の人柄について探ります。次回もどうぞお楽しみに〜。

 

半澤直史
韮崎市教育委員会・文化財担当

千葉県出身。大正大学大学院で修士号を取得後、縁あって韮崎市で働くことに。戦国無双をはじめとするゲームや漫画などサブカルチャーがきっかけで歴史にハマる。じつは、武田信玄より、上杉謙信のほうが好き。