韮崎に来て、もう人生の半分が経とうとしている。そう、私は韮崎の生まれではない。それに、山梨の生まれでもない。今風に言えば、移住者である。いや、移住者だったという表現が正解なのかもしれない。
なにしろ、東京で久しぶりに友人と会い一杯吞みながら話をすれば、「何をいっているのか分かりにくいから、標準語で話せ!」としかられる始末だ。
私自身は標準語を話しているつもりだったのだが、実際には、甲州の標準語(甲州弁)を流暢に話していたということになる。酔っていたとはいえ、無意識下でも甲州弁が出るくらい、山梨県に馴染んでいるということにしておこう。
今回の記事では、そんな私が、なぜ韮崎の地に移り住み「考古学」の仕事に携わっているのか、というお話をしたいと思う。
転機は突然に...
さて、そんな私が山梨に移り住んだのは、就職がきっかけだった。
今から約25年前のこと。当時の私は発掘の仕事に就きたいと燃えている就職浪人生であった。
大学院を出て1年が経とうとした頃、山梨県で希望していた職種の募集があり、エントリーするも、敢え無く撃沈。「こんなこともあるさ〜」と呑気に構えてはいたものの、学生時代の同級生はみんな就職していて、たまに会っても話題は仕事のことばかり。
内心焦っていたし、オイテケボリのような感覚を覚えた。それでも、自分の研究テーマに合致した山梨で働きたいという思いが変わることはなかった。
そんな未練がましさ?が、功を奏したのだろう。山梨県のとある町で文化財に詳しい人材を探しているという情報が、お世話になっている方を通じて舞い込んできた。
こんなチャンスは二度と来まい!と話に飛びつき、両親にすら相談することもなく、面接へと訪れたのが「韮崎」であった。
その面接がまた独特だったと記憶している。面接会場を訪ねていくとスーツ姿の方と、作業着を着たラフな格好をした方が迎え入れてくれた。ラフな格好の方は「自転車のブレーキを直しているけど、わりぃじゃんね」といいながら、ゆるやかに面接がはじまった。
残念ながら面接内容はまったく覚えていない。とりとめもない内容だったとは思う…。
これまでの経験したことのない状況に面食らいながら、きっと、スーツでバシッと決めた人が後に上司となる方で、作業着の方は発掘の補助をしている「おじちゃん」なのであろうと思い込み、面接に挑んでいた。…が、それは飛んだ勘違いだった…。
なんと、蓋を開けたら、作業着姿のラフなおじちゃんの方が上司だったのである(笑)。これは、後に判明したことだが、 1人で韮崎の文化財保護を先頭にたって実践してきたすごいお方であったのだ。
とまあ、そんな不思議な面接を経て、無事「採用」の通知をいただき、韮崎の非常勤として調査に携わることになった。
念願の仕事に就けることに大喜びしていた私だったが、一方で母親はひどく寂しそうな顔をしていたことを、今でもはっきりと記憶している。
それもそのはず、周りに過保護だと注意されるくらい溺愛した一人息子が、自分に何の相談もなく就職を決め、聞いたこともない土地に引っ越すというのだから、それはそれは、計り知れないショックを受けたことだろう。
その時のことを謝ることも、これまでの感謝をきちんと伝えることもできていないまま、ただ時だけが流れてしまった。その時の思いを伝えることが叶わないのが、未だ心残りである。
すべての原点は幼少期の情熱にあった
せっかくだから、両親のことも少し話しておこうと思う。私がこの道を歩んでいるのは、両親のおかげなのだから。
誰もが通る道かもしれないが、私は「恐竜」が大好きな少年だった。特にトリケラトプスが好きだったと記憶している。(実は記憶違いで、タルボザウルスだった。)
おもしろいことに私の母は、恐竜のいる時代と縄文時代とが一緒だと思っているような人で、恐竜が好きな私を、いろいろな博物館へと連れて行ってくれた。
すでにお察しいただけたと思うが、行った博物館には恐竜の姿など影も形もなく、その代わりに土器や石器の類がこれでもかと言わんばかりに展示がされていたのだ。考古学系というか、歴史系博物館というか…とにかく、ずれていた。
一番記憶の中に残っているのは、長野県・茅野市にある尖石の博物館。今や国宝を2点も有する立派な博物館であるが、私が少年の頃は、屋根がドーム型をした印象的な建物だったことをよく覚えている。
そして、土器についたフシギなガラを見た母は「恐竜みたいな模様ね」とにっこり話しかけてくれた。さすがに、その模様は恐竜ではなかったが、ヘビやイノシシといった生き物を表しているものだった。今思えば、私の母には模様を見るセンスがあったのかもしれない。
そんなちょっとずれた両親に育てられたおかげだろうか。それとも、本を読んだり、想像をすることが好きだったことが影響したのだろうか。小学校の卒業文集には将来の夢を「小説家になりたい」と書くような子どもへと成長していた。
さて、この話にはまだ続きがある。これまでずっと「小学生の頃の夢は小説家」だったと思い込んでいたのだが、韮崎にきてしばらく立ったころ、ひょんなことから卒業文集を見返すこととなった。
その時、初めて知ったのだが、そこには、小説家になりたいという言葉とともに、「昔の人の生活を調べる人になりたい」という、力強い言葉が書かれていた。
そう、私の考古学研究に対する情熱の原点は、幼少の頃にあったのだ。そして、図らずも小学生の私は夢を叶えていたのである。
子どもの私がこのことを知ったらどんな表情をするのだろうか。この記事を執筆しながらそんなことを考えている。
「考古学」という天職との出会い
そうそう、これまでの話の流れだと「昔の生活を調べる考古学を目指したのは必然だな」と、思う方もいるかもしれない。実際は、そんな真っ直ぐな気持ちだけでこの道に至ったのではないので、先に「真実」を話しておきたい。
さかのぼるのは、大学の進路に悩んでいた高校3年生の頃。当時、学校の先生になりたいと思っていた私は、教育学科にするか史学科にするかと長く悩んだのだが、最終的には「社会の先生になりたい」という思いから史学科を選択した。
そして、大学2年生に上がる頃には、日本史・東洋史・西洋史・考古学のいずれかを履修しなければならないという選択を迫られた。もちろん、再履修となった東洋史は論外であり、世界史も外国語も苦手だったので西洋史もありえない。自ずと、日本史か考古学という二択に絞られる。
ここで、小学校の卒業文集のことを思い出し、迷わず「考古学」を選択していれば、かっこいい話なのだが…現実はまるで違う。
「当時、大好きだった人が考古学を選んだので私も考古学にした」
ただ、それだけのことである。浅はかというか、恋は盲目だなと、今となっては飛んだ笑い話である。当然ながらその方と結ばれることもなかったのだが…。
とはいえ、今の私がいて、韮崎でこの仕事をしているのは、彼女が考古学を選んでいたからに他ならないわけで。
そんな不純な動機?から始まった、私の考古学者としての道だが、これが天職だったのかもしれない。そう考えると人生ってものは、本当に不思議である。
歴史や文化は「人生」の積み重ね
このエピソードの登場人物以外にも、家族や職場の仲間、飲み屋で知り合った方々をはじめ大勢の方々が、その時々で私を作り上げてきてくれた。その積み重ねのおかげで今の私があるし、きっとこれからもそうなんだと思う。
考えてみれば、 この連載で取り上げている「歴史や文化」も同じではなかろうか。
先人たちの過去の積み重ねで作られた現在があって、そこを舞台にしながら今を生きる人々がいて、過去を知り、その過去や現在を大切にしながら、これから向かう道を考え、 未来に向かっていく…。そうやって、歴史や文化は生まれていくのだと、私は思っている。
とまあ、こんな人間に韮崎の歴史や文化、そして未来のことなどを語らせて良いのかと、突っ込みをいれたい方もいるのかもしれないが、ここまで読んでしまったのならば、これからの連載にもしばしお付き合いいただければと思う。
結びに、この連載を通して、私がこれまで肌で感じ観察し続けてきた「韮崎のハナシ」から、この土地に息づく「〇〇」を感じ取っていただけたら幸いである。