日本各地に残っている、その地域の歴史や文化を伝承する歌や踊り。その土地に住む人々が後世に残したいと守り伝えてきた、これらの歌には、人々の願いや記録など、当時の生活の様子がありありと刻まれている。
韮崎市にも、旭町甘利地区に伝えられ、無形民俗文化財にも指定されている「綾棒踊りの歌」がある。この歌には、かつてこの地で起こった「甘利山をめぐる争い」の記憶が残されているというのだ。
そして、この甘利山。127年前に一度、草木もない荒廃した山となったものの、とある人物の手により、美しい森林へと復活を遂げたという逸話もあるそうだ。
韮崎と歌と甘利山…。甘利山を舞台に繰り広げられた、数々の物語について、韮崎市教育委員会の閏間俊明さんが語る。
目次
歌から韮崎の歴史を語る
突然だが、皆さんは、歌が好きだろうか?
何を隠そう、私は聴くことも歌うことも好きだ。
そのきっかけは、小学校5年生の時。意外と驚く人もいるかもしれないが、その頃の私はバイオリンを習っていた。とはいっても習わされていたという表現の方が正しいのかもしれない。
そんな調子だったため、バイオリン教室の先生は、私が音楽を楽しめていないことを簡単に見抜いてしまったのだ。そして、「歌でもうたってみないか?」と声をかけてくれた。今となっては、何を歌ったかまでは覚えていないが、とにかく楽しかったこと、歌うことが好きになったことだけは記憶している。
なお、好きなだけで、特段上手なわけでもなく、今は、もっぱら聴く専門。たまにカラオケで歌うことはあるのだが、その歌声については、想像にお任せしたい(笑)。
さて、私の思い出話はこの程度にして、今回は「歌から韮崎を語る」をテーマにお話したいと思う。
「何それ?」と思われるかもしれないが、歌で感動した経験がある方は多いと思う。
では、なぜ感動するのだろうか。歌っている人が「カッコいい」「カワいい」という理由もあるかもしれないが、何よりも歌に込められたメッセージや思いが心に伝わってくるからではないだろうか?
簡単に言えば、人は無意識に歌へと込められた何らかのメッセージを感じ取り、感動し(心が動き)、口ずさむものだと思っている。自らが口ずさむことで、その歌は次の人、また次の人へと手渡されていく。何かを伝えるとき、言葉=歌は絶大な力を発揮するのである。
そう、歌には作詞・作曲した方々、そして歌い手の思いが詰まっているものなのだ。
そんなことを頭の片隅に置きながら、これから紹介する「綾棒踊りの歌」にまつわる話に、ラジオを聴く感覚で、ゆるくお付き合いいただきたい。
甘利山を蘇らせた男
そうそう、「綾棒踊りの歌」について語る前に、まずは舞台となる"甘利山"にまつわる話を聞いてほしい。
甘利山は、手軽に自然を満喫できるところとして人気の観光スポット。この山は、5月末から6月にかけて一面に広がるツツジ、7月頃に咲き乱れるヤナギランなどの草花、秋の紅葉、澄み切った星空が見えるなど、春夏秋冬そして昼夜を問わず、自然を体感できるパーフェクトな場所である。
加えて、住宅街からほど近く、山頂付近まで車でアクセスできるので、韮崎市に住む人々にとって「身近な大自然」といっても過言ではないだろう。
だた、大自然というと、手つかずの自然を思い浮かべてしまいがちだが、甘利山は1度、木がなくなり丸坊主の状態になったことがあるのをご存じだろうか?
遡ること127年前。当時の日本では、大きくて太い木は高く売れることから、人々は「伐採して、ひと儲けするじゃん!」と考え、私利私欲から山を切り開いていったそうな。今風に言えば「乱開発」というやつだ。
計画性もなく、ただ闇雲に伐採を進めていくものだから、山は一面丸坊主に。そうなれば、お約束の「山の神の逆鱗」に触れることになる。
実際、山に木がなくなると大地を支えていた木々の根が消え、保水力もなくなることから、土砂崩れが発生しやすくなる。それは麓の村々にまで影響を与えていたという。
そんな、荒れ果てた甘利山を再生しようと、立ち上がった人物がいる。明治時代を生き、韮崎町長も務めたことがある、穂坂直光という男だ。
時は、明治28年(1895)。直光が48歳のとき、惨憺たる甘利山の姿を見て、復活のために山の木々を守るルール作りや植林活動などに取り組み始めた。
直光は、山林経営に関する事務処理、監視人(山番人)の監督や植林計画、苗圃管理をはじめ、多岐に渡る業務をこなしつつ、地元の人たちと協力して約200ha(東京ドームの面積約42.5個分)に及ぶ広大な土地に植林し、見事に山を蘇らせたのだ。
しかし、これまで自由に甘利山に入山でき、伐採ができたところに、制限がかかればどうなるだろうか…。
いつの世も何か新しい事を起こすと賛成する者がいれば、反対する者も現れるものだ。
これだけの偉業を成し遂げた直光でさえ、苦労が多かったという。実際、厳しい意見を突きつけられたり、恨まれたりすることもあったそうだ。
だが、彼は毅然として信念を貫き通したと伝わっている。なぜ、諦めなかったのだろうか。そこには、直光の心が広く、小さなことにこだわらない性格だったことが影響しているのではないか、と私は推測する。こんな、エピソードある。
直光は、60歳をすぎてから若者と一緒に県の林業講習を受講し、植林をするときは甘利山の山頂に寝泊まりして作業にあたったというのだ。
60歳といえば、定年退職して第2の人生を歩む年齢であり、積み上げてきた人生に固執するあまり、周囲とぶつかり上手くいかないというのは、よく聞く話だ。
しかし、直光は、そんなことを気にすることなく、「甘利山の自然を取り戻す」という目的に向かって、周囲を巻き込み、まっすぐな気持ちと実行力を武器に、率先して行動を続けたのだ。
口でいうのは簡単だが、実際それを実行できる人がどれだけいるだろうか?
かくいう私も恥ずかしいことだが、そんな自信は微塵もない。
直光は、甘利山を計画的に保全することで韮崎のまちの安全と経済が潤うことを知っていたのだ。そして、山を育てることで、麓の村の生活が潤うということに気づいていたのだろう。
その結果が、今の甘利山だ。
現在は甘利山倶楽部などの方々が、甘利山の保全に取り組んでいる。甘利山は手つかずの大自然ではなく、地元の人たちの想いと愛が育てた大自然なのだ。
これが、人々がこの山に魅了される理由の1つなのかもしれない。
甘利山をめぐる争い、人々の願いを込めた歌
そんな甘利山だが、多くの人々から関心が集まれば、その分「この山を自分たちのものにしたい」と考える集団が現れる。そこで発生するのが「争い」だ。
要するに村と村とによる「甘利山の魅力」の奪い合いである。
その甘利山を巡った争いの様子を歌にしたのが、先ほど紹介した「綾棒踊の歌(無形民俗文化財)」なのである。
まずは、この歌の詞に注目してもらいたい。(曲はこちらのリンクから)
一つ新ばん甘利山 山論さわぎを おききやれ
このじょうかいな
2 二つとのーえ さんのえーエ
深草山の栗平 峰には甘利が陣取った
このじょうかいな
※以下、「○のーえ さんのえーェ」・「このじょうかいな」は繰り返し
3 南の沢辺の中程に 有野の水しも八ヵ村
4 横道喧嘩は西郡 相手の有野へ加勢人
5 何時から遠目を付け置いて 下から登るを待ち伏せる
6 ムショウ矢鱈に斬り込んで あらしも沢辺も人だらけ
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では、なぜ歌として伝えられてきたのだろうか?
争いごとは裁判によって、甘利山の権利の正当性は保証されたのだから、それでよいのではないかという声が聞こえてきそうだが、ここで少し立ち止まって考えてみてほしい。
裁判の文書だけでは、その文書がなくなってしまえば、血のにじむような努力の中で守り抜いたことが、時代と共に忘れ去られてしまう可能性がある。そこで、当時の村人たちは
「歌い踊って、この争いのこと、守り抜いたことを、伝えていこう!」
と考えついたのではないだろうか?
韮崎市内には、この「綾棒踊り」の他にも、韮崎の歴史にまつわる歌がいくつか存在する。それは、現代の私たちが聞けば、古臭いメロディーで、歌詞もわかりにくく、お世辞にも興味が持てるとはいえない。
でも、この記事を読んでくださった人達だけでも、ちょっとでよいから、地元で語り継がれてきた歌に関心を持ち、耳を傾けてみてもらいたい。
当時の人たちの強い思いが詩になり歌になったものなのだから。その点では、いま、皆さんが好きだと思う楽曲となんら変わらない。
韮崎の魅力を守り抜いた先人たちの魂の叫びを聴くことで、自分たちが住む町の今が、当たり前のものではなく、先人たちが守り、語り継いできた軌跡のおかげで存在しているということを、歌の中から感じとってももらいたいのだ。
閏間のひとり言
ここまで紹介したように、韮崎に伝えられている歌には、韮崎を築き上げてきた先人たちからの大切なメッセージが込められている。そのメッセージに聞く耳を持ちながら、これからの韮崎を築き上げていくことが大切なんじゃないかなと、私は思っている。
最後に、私の背中を押してくれる歌を届けてくれるconsadoというデュオの「僕らの軌跡」という歌の歌詞の一部を紹介したい。
作り上げてきた僕らの軌跡 確かにこれからも紡いでいくんだよ
この歌は2人の歌手活動の軌跡を未来に向けてつづったものだ。この歌を聴くたびに、まちづくりも一緒だなと胸が熱くなるのだ。
それは、まちの魅力を失う、もしくは失いそうになることもあるけど、先人たちが作り上げてきたまちを、今を生きる私たちが守り、伝え、作りつづけ、そして未来へと紡いでいくという軌跡がまちづくりだと思っているからだ。
まちづくりと聞くと複雑かつ大変なイメージを想像しがちだが、このまちに暮らす人たちが、強い思いを持って手と手を取り合えば、次の世代へと繋いでいけるのではなかろうか。
また、彼女らはファンからの応援に対して、「音返し」をしたいと常日頃から口にし、それを実直に駆け引きなしで実行している。
彼女たちの行動を自分へと置き換えた時、果たして私は、これまで私を育ててくれた韮崎に対して、いったいどんな「恩返し」ができるのだろうか?
答えを見つけることなく一生を終えるかもしれないし、これから見つけるのかもしれない。いずれにしても、甘利山を守り育てた穂坂直光にはなれなくとも、常に考え、実行していきたいと思う、今日この頃である。
今はただ、この韮崎という美しいまちを、ここに暮らす人々と共に未来へと紡いでいきたいと、ただただ願っている。