にらレバライター、BEEK DESIGN スタッフとして編集・デザイン業に勤しむ。元地域おこし協力隊・青少年育成プラザMiacisスタッフ。1991年生まれ。韮崎高校出身。音楽・サウナ・お寿司が大好き。
約2年前のアメリカヤの復活以降、まちづくりにおいて注目を集めるようになった韮崎市。
新しい店舗も徐々に増えてきて、まちは現在、変化の真っ只中にあるように感じられます。
もちろん、まちの人もこの活性化を喜んでいますが、その一方で、「一体どこに向かうのだろう」という声を耳にすることもあります。
いま目に見えているまちの変化は、このまちの長い歴史上の、ほんの一部の出来事。これを活かすのか単なるブームで終わらせるのかは、きっと私たち次第なのでしょう。
そこでにらレバでは新たに、「韮崎の歴史」に着目してみようということになりました。
“温故知新”という言葉があるように、ここから向かうべき方向、大切にすべき本来のまちの姿は、過去の文脈の中に隠されているのかもしれないと思ったからです。
一回目の今回は、現在龍岡町で行われている発掘調査に潜入(※)してきました!
(※)発掘調査とは?
発掘調査とは、遺跡を掘り下げながらその記録や分析などをおこなって、過去の人々の生活や技術などについて調査すること。
案内をしてくれたのは、韮崎市民俗資料館の閏間俊明さん。
川沿いの堤防の断面調査と地面の発掘調査の2つを通して新たに見えてきたこのまちの歩みや韮崎の歴史を研究し続けている閏間さんの、まちづくりに対する考えをお伺いしました。
韮崎の歴史と言えばこの人!閏間俊明さん
窪:今日はよろしくお願いします。
閏間さんは東京のご出身ですよね?そもそも、どうして韮崎市に来ようと思ったんですか?
閏:僕は東京で10年くらい遺跡関係の調査をしていたんですけど、山梨とか長野から出てくる土器がおもしろいなってずっと思っていて、いつかこっちの調査がしたいと思っていたんです。それで募集が出ているのを見つけて、すぐに応募させてもらいました。こっちに来て、もう20年になります。
窪:この地域から出てくる土器のどういうところにおもしろさを感じたんですか?
閏:日本の縄文土器って、世界の中でも立体装飾がすごいんですよね。その中でも、山梨や長野のものはいきいきしているものが多くて、命を連想させるような、生々しい表現がある。そんな表現力豊かな人たちはどんな生活をして、どんな風景を見ていたのか興味をもっていたんです。
マヤ・アステカ遺跡なんかも生々しい表現が見られるんですけど、向こうは絵で表現しているので平面的で。縄文土器は立体的で圧倒されるものがあります。
興味のない人からしたら何のこっちゃって思うだろうけど、僕からしたら韮崎エリアはとてもおもしろい場所なんです。
調査対象①:川沿いの堤防(=目に見える遺跡!)
閏:それでは、さっそく発掘調査の現場をご案内しますね。
まずはこの堤防。これは明治時代につくられた堤防なんですけど、今年の7〜8月には取り壊して耕作地にすることが決まっているんです。その前にこのように切断し、断面を観察して、過去にどういう発想や技術でつくられたものなのか、それが今どういう状態になっていて、じゃあ今後はどういう風にしていけばいいのかということを考える材料にするんです。
閏:木の部分を見ると、一番下に太い柱があって、はしごみたいになっていますよね。それによって石がずれないようになっている。
細かい杭のように連なっているのも、堤防の根元に直接水があたると決壊してしまうのでそれが起きないようにするための工夫ですね。
窪:外から見るとただ石が積んであるだけに見えるけど、そうじゃないんですね。
閏:断面を見てみると、地面の中に基礎がしっかりとつくられていて、堤防を支えていることがわかります。材料は木からコンクリートに変わっていますが、今でも一般的な堤防は、この方法でつくられているんですよ。
閏:真横につくられている新しい堤防は一直線に連続しているんですけど、こっちの古い堤防は何箇所か途切れていて、少しずつ位置をずらした構造になってるんです。
窪:本当ですね。どうして今は直線状になったんですか?
閏:連続していると、堤防が決壊して水が入ってきたときに、水の逃げ場がなくてプールみたいになってしまうんですけど、「より高く、大きくすれば自然をコントロールできるはず」という考え方も反映されているのかもしれませんね。現在は連続した大きな堤防が多いと思いますよ。決壊しなければ問題はないので。
ただ、今の自然災害は人々の想定を超えてくるので、堤防が決壊して水浸しになる被害に遭うまちも何箇所も出ていますよね。決壊する度に、「もっと大きく、もっと立派なものを・・・」となるのですがそれでも自然はそれを上回ることが度々あって、被害も甚大ですよね。昔の堤防が切れているのは、水害という自然の力を受け入れながらも、その被害を最小限にとどめようという工夫だったのではないかなと思います。
閏:よく見ると、石の表面もノミで削って平らにしてあるんです。出っ張っているともしかしたら水が当たって、そこの石が抜けて崩れてしまうかもしれない。昔の人はそこまで考えて、手作業で一つ一つ石を削ったんですね。
窪:えー!そんなに細かいところまで!昔の人がよく考えていることもすごいけど、そこに気が付く閏間さんもすごいですね...笑
閏: 見れば見るほどよく考えられていて、非常におもしろいなぁと思います。これは良い堤防ですよ。
窪:堤防に「良い」とか「悪い」とかあったんですね...笑
そこまでして先人たちが守りたかったこの土地
閏:昔は機械がなかったから、これだけのものをつくるのに苦労したと思うんです。これだけの量の石を運んで手積みしているわけで。そこまでして、堤防の向こう側の土地を守りたかったんでしょうね。
窪:どうしてこの土地がそんなに大切にされてきたのでしょうか?
閏:きっと当時から美味しい米が取れたんだと思います。
この辺りは徳島堰の水がちょうどいい温度になって、田んぼの中に入ってくるんですよ。武川米の原点はこの辺をさすという人もいるんです。
きっとみんなが堤防の必要性を感じて、龍岡の人も大草の人も出てきて住民総動員でつくったんだと思います。
古い絵図なんかを見ると、少なくとも江戸時代から堤防がこの辺には作られていたんです。
遺跡は地面に埋まっているものだから、遺跡調査と言うと、「目に見えている堤防をなぜ発掘調査をするんだろう」って言う方もいらっしゃるんだけど、「いやいやいや、皆さんのご先祖様たちが土地を守るために作り上げてきた大切なもので、これがあったからこそ今があるんですよ!」って僕は思うんです。
調査対象②:地面(=かつて村があった場所)
閏:次に、堤防のすぐそばの地面の発掘調査の様子を案内します。
地面にいっぱい穴が空いていますが、もちろん、何の根拠もなく穴を掘っているわけじゃないんです。笑
閏:周りと違う土が溜まって黒っぽくなっているのが「炭焼き」をした跡なので、その部分を掘っていきます。
最終的に炭だけ残した状態にして、年代がわかる土器が見つからなかった場合は炭を分析することもあります。
炭の木材は何なのか調べたり、どのくらい前に焼かれた物なのか年代測定をしたりします。
窪:掘る深さはどうやって決めるんですか?
閏:深さは地層を頼りに、徐々に掘っていきます。一番上の部分が現在の耕作土で、層ごとに時代が変わるので、それを目安にまずは試し堀りをして、判断していきます。
閏:水田が平になったのはつい最近のことで、その前までの地面は起伏に富んでいたんです。水害のたびに起伏が埋まっていって、埋まったことによってそこを耕作地にして、その結果として今の風景がある。
それを一枚一枚丁寧に剥がしながら、土地がどういう風に変わっていって、それはどうやって人と関わってきたのかを見ていきましょうっていうのが、僕の仕事なんです。
山梨の釜の起源は韮崎にあった・・・?発掘で見えてきた当時の風景
閏:今回の調査では、戦国、平安時代にここで窯焼きが盛んに行われていたとわかる破片が大量に出てきているんです。焼くのに失敗して捨てたんだろうと予測できるものが大量に見つかっていて。
「一欠片でも出ればすごい」と思われていたようなものが、50箱以上・・・もしかしたら100箱近くになるのでは?というくらい見つかっているんです。
窪:100箱!?そこからどのようなことがわかるのでしょうか...?
閏:これは山梨の窯業の歴史を塗り替えるすごいことなんです。
この焼き物は「須恵器」という技術のものなんですけど、中国や朝鮮半島から大和政権(今の奈良のあたり)に伝わってきました。そこから工人たちが日本各地に広めたとされているんですけど、これまでは「山梨には須恵器の焼き物をする人が入ってこなかったんだ」と言われていたんです。山梨で使われていた焼き物は、長野や静岡から持ってきていると思われていました。
窪:なるほど!今回の調査で、実は山梨(韮崎)でも須恵器が大量につくられていたことが新たにわかったんですね。
閏:そうなんです。それも、村の中で消費できる量ではないので、おそらく河川を使って他のまちに流通していたのではないかと思っています。韮崎は釜無川と塩川という、二大河川が流れているのも特徴で、当時のガタガタ道を行くと割れちゃうけど、河川流通なら割らずに大量に各地に送り届けることができますよね。
こうやってストーリーを解き明かしていくと、「山梨の窯の起源は韮崎にあった!」と言ってもおかしくなさそうですよね。
窪:すごい!なんだかワクワクしてきました...!
民俗資料館で行われる記録資料づくり
閏:発掘された出土品は民俗資料館の遺跡整理室で、ていねいに泥を落としてから、見つかった場所や日付のわかるように名前を書いていきます。
閏:調査からわかったことは、未来のために記録していく必要がありますよね。重要なものは拓本をとったりして、ここでは本に載せるための資料をつくっているんです。他の地域ではパソコンでデータを取り込んだりしていると思いますが、うちはまだアナログ。昔からの方法で作業をしています。
歴史の延長線上にある現在と未来。閏間さんが伝えたいこと
窪:今日は想像していた以上に、いろいろなことを知ることができました。歴史を知って、ここにどんな生活があったかを想像するのってたのしいですね。
閏:先ほどの二大河川の話もそうなのですが、江戸時代だったら韮崎宿があって、戦国時代だったら新府城があったことなどを考えると、韮崎は「人・もの・情報」を集めやすいし発散しやすい地理的な条件が揃っているということを、歴史が証明していると思います。
そういうものを上手く使ってまちづくりをしていくのがひとつの方法なんだろうな、それが「韮崎らしさ」になっていくんじゃないかなと僕は思っていて。
窪:韮崎らしさ...。その土地の元々の特徴みたいなものって、きっとあるんでしょうね。
閏:新しいものをつくってまちが盛えていくのはもちろんいいことだと思うんですけど、この土地が歩んできたものを知った上で新しいことに取り組んでいけば、いろいろなものがつながっていくと思うんです。
過去を知らずに新しい物ばかりつくってしまうと、「それって別に韮崎じゃなくてもいいよね」というものになってしまう。せっかくこの土地ならではの歩みがあるのだから、それを活かしていけたらと思っています。
窪:閏間さんはそれを伝えていくためのお仕事をされているんですね。
閏:僕は、今日見たような遺跡などの文化財には、先人たちが関わってきたんだということを、みんなに想像してもらいたいんです。その先人たちはもうすでにいないけど、今ここにある物には確かに人が関わってきていて、そこには先人たちの想いや知恵が詰め込まれているのだということ。
単なる“物”ではなくてその背景を探ることで、それを作り使っていた先人たちの歴史や文化があることを知る。その延長線上に私たちがいて、さらにその先に次世代を担っていく人たちがいるんだ、だからこそ韮崎というところを大切にしていこうよっていうのを伝えていきたいんですよね。
日々、こんなことを考えられる時間をもらえて感謝しています。この仕事はたのしいですよ。
今回の取材をしてみて、このまちの歩みをもっと知りたい、伝えていきたいと強く思いました。
閏間さんも仰っていたように、まちづくりを考える上で、まちの歴史を知ることはきっと重要なこと。でもそれ以上に、単純に、“歴史を知るのっておもしろい!”と今回の取材を通して感じました。
かつての暮らしの様子が想像できたり、先人の知恵から学ぶことが多かったり...。
きっと知れば知るほど、自分たちが現在このまちに関わっていることに、必然性を感じられそうな予感がします。
あまり難しく考えすぎず、おもしろおかしくまちのことを調べていくうちに、だんだんまちの在るべき姿が見えてくる。そんな展開を願って、これからもにらレバでは、韮崎の歴史について調べて記事にしていきたいと思います。 閏間さんに聞きたいこともまだまだいっぱい。閏間さん、引き続きどうぞよろしくお願いします!