韮崎の地名の謎と意外なルーツ編[後編]|【教えて閏間さん!】Vol.2

連続企画「教えて閏間さん!Vol2.韮崎の歴史と意外なルーツ編【後編】」をお届けいたします。

前編では、韮崎の「地名の由来」や「ゆかりのある苗字」について熱いトークを繰り広げ、お茶やお菓子をつまみながら小休止をとった、閏間さんと筆者。

後半戦では、引き続き「地名の呼び方の謎」と「韮崎のルーツ」について聞いていきたいと思います。

「葛井」の読み方には理由がある?

松野
さて、気を取り直して。

韮崎から出土された土器から「地名の呼び方の謎」や「韮崎のルーツ」が判明したおもしろいできごとってどんなことですか?

閏間さん
前回、僕が宿題で出したクイズの答えはわかりましたか?じつは、それが、地名の呼び方の謎と深く関係しているんです。

松野
クイズになるくらいなので、「クズイ」ではなく別の読み方をするんですよね。でも、わかりませんでした(笑)。

閏間さん
ヒントに、大阪の野球場と千手観音を挙げていますが、この大阪の野球場は「藤井寺球場」のことで、その近くにある、千手観音が有名なお寺を「葛井寺」といいます。

もう、わかっちゃいましたよね。正解は、「フジイ」でした

松野
予想だにしない、キレイな読み方で驚きました。

しかし、植物の葛と藤では、シルエットも咲く花もまったく異なりますよねそれなのに、同じ読み方をするんですね。

閏間さん
古代では、藤の花を「藤」、葛の花を「葛」と漢字では記していましたが、同じツル性の植物ということで、藤も葛も「フジ」と発音していたようです。

どこかのタイミングで、植物分類学上「藤=フジ」と「葛=クズ」に、呼び方を分けたのだと思われます。

韮崎市内にある藤井町が「フジイチョウ」と呼ばれているのは、昔の読み方の名残があるからなんでしょうね。

韮崎の藤井町は由緒ある古風な町?

松野
まさか「藤」と「葛」が、昔は同音異義語だったなんて。

閏間さん
じつは、この話には、まだまだ続きがあるんです。

1980年代に韮崎市の「中田小学校遺跡」からある器が発見されたのですが…器の裏側に墨で漢字が書かれていて、その文字がなんと「葛井」だったんです

現在は、消えかかっていて実物を見てもほとんど読めないのですが、赤外線で撮影された写真で見るとバッチリ。

写真:韮崎市民俗資料館所蔵写真に加筆作成

松野
すごい!かなり昔から当たり前のように、葛井はフジイと読まれていたんですね。

閏間さん
そうなんです。日本人が書道をするようになったのは平安時代以降といわれています。

当時の人々が文字として使用するということは、広く日常的に使われていた言葉だったのでしょうね。

つまり、平安時代以前から「葛井」という呼び方や地域が存在していた可能性が高く、由緒正しき古風な呼び方であるといえますよね

松野
しかも、キラキラネームに変えられずに現存していることが、ポイントですよね。

閏間さん
そうなんです。藤井町という名前は、歴史ある古風な町の名前といえます。

土器から判明した韮崎の意外なルーツ

松野
その他にも、発掘調査で見つかったおもしろい発見ってありましたか?

閏間さん
そうそう韮崎のルーツに繋がった調査の話をするお約束でしたね。

じつは、韮崎で発掘された器に書かれていた、墨書(ぼくしょ)から、韮崎と縁が遠いと思われていた人々との交流が判明したんですよ

松野
おぉ、どんな文字が書かれていたんですか?

閏間さん
これです。「狄(てき)」という文字を見たことありますか?

写真:韮崎市民俗資料館所蔵写真

松野
見たことないです。この文字に一体どんな韮崎のルーツが隠れているんですか?

閏間さん
この「狄」という文字は、歴史の教科書にも登場する蝦夷(えみし)と深いつながりのある文字なんです。

はっきりと断言はできませんが…少なくとも「蝦夷に関連する人たちが韮崎に来た」もしくは、「蝦夷の文化がこの地に伝わって来た」ことにより、韮崎でこの文字が書かれたということは間違いない。

このことから、「韮崎は東北と何か深い繋がりがあった」ということが、新たに判明した大発見なんです。

松野
「狄」という1文字の漢字から歴史を紐解くことができるなんて…ロマンが詰まっていますね。

閏間さん
じつは、ここだけの話…

この器が発見された1992年には「秋」という全く違う漢字で報告されていたんですよ

考古学研究が随分と進んできたので、3年前に再度調査し直したところ…発見当時に報告した文字と違うことが判明したんです

松野
すごい。歴史って、随分月日が経過してから解明されたりすることもあるんですね。

閏間さん
そうなんです。よく発掘調査で、土器やそのカケラなどが発見された際、「こんなガラクタばかり保管してどうするんだ」と言われてしまうことがあります。

でも、それは現代人が未だ到達していない技術や知識レベルで勝手に「価値を判断しているだけ」なのではないでしょうか。

今はガラクタに見えるかもしれません。しかし、今回のように数年後「新たな視点」を加えて見直すことで、「思いがけない新たな歴史の発見へと繋がるカケラ」に化ける可能性を秘めていると私は思います。

韮崎という「個性」を生かした街づくりを!

松野
それにしてもまさか、韮崎と蝦夷が繋がるとは。やはり、韮崎という場所や地形が大きく関係しているのでしょうか?

閏間さん
そうですね…戦国時代には、武田勝頼が新府城を築城し活動の拠点となっていました。

その後も、宿場町として栄え釜無川を使って水運で荷揚げの拠点となったり、明治頃になると交通機関も発達し韮崎駅ができたり…と時代の節目節目で中核的な役割を担っていることがわかりますよね。

歴史をみてみると、韮崎という場所が「ヒト・オカネ・モノ・情報」を交差させやすい中枢都市だったのかもしれませんね

松野
そう考えると、次世代や次々世代の私たちが、韮崎の魅力や良さを活かしつつ、後世にどのように残していけるのか考えることが、とても大切ですね。

閏間さん
そうですね。若い世代の方々には、韮崎の個性や地域色をしっかり伝えてもらいたい

現代は情報化社会となり新しいモノが次々と生まれ、流行り廃りのサイクルがより早くなりました。

街づくりも似ていて、大都市の良いところばかりを真似てしまうと、どこも同じような街並となり、その町の個性が損なわれてしまう。

だからこそ、過去から脈々と受け継がれて来た「韮崎」という美しい町の個性を活かした街づくりを行うことが大切なのではないでしょうか。

松野
閏間さんのお話を伺い、目新しいものばかりを取り入れるのではなく、過去から情報を拾い現代にあった形で発信していくことが大切なんだなと感じました。

新しいことはどんどん増やしていける。しかし、過去の出来事は継承せず忘れてしまったら、そこで途絶えてしまう。だからこそ、その土地の歴史を学ぶことが大切なんですね。

閏間さん
だからといって過去の生活にタイムスリップしようということではないんですよ。

よくこういう話をすると、例えば「縄文時代っていいよね〜」「縄文時代に還ろう」って曲解しがちなんですけど、そうじゃない。明日、生きるか死ぬかのシビアな時代に戻るのはちょっとね(笑)。

過去に戻るのではなく、当時の生活や考え方を現代的視点で見た時に、学べることや活かせることはたくさんあるので、現代にあった形で自分たちのものにするという作業が必要なのではないでしょうか。

先ほどの話に繋がってくるのですが、歴史は先人たちが積み上げてきたものだから、誰も否定できない事実。一方で、その歴史や昔のモノを捨てることも壊すことも、とても簡単なことです。

だからこそ、これからの時代を生きる私たちは、韮崎の歴史や成り立ちを知り、その土地の特徴をつかむことで、無理のない「自然な街づくり」を行えるのではないか、と私は思っています。

松野
本日は貴重なお話をたくさん伺えて楽しかったです。韮崎という街が、ますます好きになっちゃいました!

また、遊びに来てもいいですか?(笑)

閏間さん
私も色々とお話できて楽しかったです。ぜひ、またお越しください。いつでも、お待ちしています。