連続企画「教えて閏間さん!Vol2.韮崎の歴史と意外なルーツ編【後編】」をお届けいたします。
前編では、韮崎の「地名の由来」や「ゆかりのある苗字」について熱いトークを繰り広げ、お茶やお菓子をつまみながら小休止をとった、閏間さんと筆者。
後半戦では、引き続き「地名の呼び方の謎」と「韮崎のルーツ」について聞いていきたいと思います。
目次
「葛井」の読み方には理由がある?
もう、わかっちゃいましたよね。正解は、「フジイ」でした。
しかし、植物の葛と藤では、シルエットも咲く花もまったく異なりますよね?それなのに、同じ読み方をするんですね。
どこかのタイミングで、植物分類学上「藤=フジ」と「葛=クズ」に、呼び方を分けたのだと思われます。
韮崎市内にある藤井町が「フジイチョウ」と呼ばれているのは、昔の読み方の名残があるからなんでしょうね。
韮崎の藤井町は由緒ある古風な町?
1980年代に韮崎市の「中田小学校遺跡」からある器が発見されたのですが…器の裏側に墨で漢字が書かれていて、その文字がなんと「葛井」だったんです。
現在は、消えかかっていて実物を見てもほとんど読めないのですが、赤外線で撮影された写真で見るとバッチリ。
当時の人々が文字として使用するということは、広く日常的に使われていた言葉だったのでしょうね。
つまり、平安時代以前から「葛井」という呼び方や地域が存在していた可能性が高く、由緒正しき古風な呼び方であるといえますよね。
土器から判明した韮崎の意外なルーツ
じつは、韮崎で発掘された器に書かれていた、墨書(ぼくしょ)から、韮崎と縁が遠いと思われていた人々との交流が判明したんですよ。
はっきりと断言はできませんが…少なくとも「蝦夷に関連する人たちが韮崎に来た」もしくは、「蝦夷の文化がこの地に伝わって来た」ことにより、韮崎でこの文字が書かれたということは間違いない。
このことから、「韮崎は東北と何か深い繋がりがあった」ということが、新たに判明した大発見なんです。
この器が発見された1992年には「秋」という全く違う漢字で報告されていたんですよ。
考古学研究が随分と進んできたので、3年前に再度調査し直したところ…発見当時に報告した文字と違うことが判明したんです。
でも、それは現代人が未だ到達していない技術や知識レベルで勝手に「価値を判断しているだけ」なのではないでしょうか。
今はガラクタに見えるかもしれません。しかし、今回のように数年後「新たな視点」を加えて見直すことで、「思いがけない新たな歴史の発見へと繋がるカケラ」に化ける可能性を秘めていると私は思います。
韮崎という「個性」を生かした街づくりを!
その後も、宿場町として栄え釜無川を使って水運で荷揚げの拠点となったり、明治頃になると交通機関も発達し韮崎駅ができたり…と時代の節目節目で中核的な役割を担っていることがわかりますよね。
歴史をみてみると、韮崎という場所が「ヒト・オカネ・モノ・情報」を交差させやすい中枢都市だったのかもしれませんね。
現代は情報化社会となり新しいモノが次々と生まれ、流行り廃りのサイクルがより早くなりました。
街づくりも似ていて、大都市の良いところばかりを真似てしまうと、どこも同じような街並となり、その町の個性が損なわれてしまう。
だからこそ、過去から脈々と受け継がれて来た「韮崎」という美しい町の個性を活かした街づくりを行うことが大切なのではないでしょうか。
新しいことはどんどん増やしていける。しかし、過去の出来事は継承せず忘れてしまったら、そこで途絶えてしまう。だからこそ、その土地の歴史を学ぶことが大切なんですね。
よくこういう話をすると、例えば「縄文時代っていいよね〜」「縄文時代に還ろう」って曲解しがちなんですけど、そうじゃない。明日、生きるか死ぬかのシビアな時代に戻るのはちょっとね(笑)。
過去に戻るのではなく、当時の生活や考え方を現代的視点で見た時に、学べることや活かせることはたくさんあるので、現代にあった形で自分たちのものにするという作業が必要なのではないでしょうか。
先ほどの話に繋がってくるのですが、歴史は先人たちが積み上げてきたものだから、誰も否定できない事実。一方で、その歴史や昔のモノを捨てることも壊すことも、とても簡単なことです。
だからこそ、これからの時代を生きる私たちは、韮崎の歴史や成り立ちを知り、その土地の特徴をつかむことで、無理のない「自然な街づくり」を行えるのではないか、と私は思っています。
また、遊びに来てもいいですか?(笑)
韮崎から出土された土器から「地名の呼び方の謎」や「韮崎のルーツ」が判明したおもしろいできごとってどんなことですか?