水がもたらす“恵み”と“怖さ”...人と自然の関係を探る|閏間さんと韮崎探訪記vol.1


第1回のテーマは「」。水は生きていく上で欠かせない存在だが、一方で水害や水不足といった怖い一面も持っている。

名水の産地としても有名な山梨県。南アルプスをはじめとする雄大な山々に囲まれている韮崎市もまた、水による恩恵を受けながらも、大小さまざまな災害と向き合い続けてきた都市なのはご存知だろうか?

今回は、今からおよそ60年前に起こった「台風7号」を例に、水の“恵み”と“怖さ”を知り、人と自然との関係について見つめ直してもらいたい…そんな内容である。

 

山梨の水はうまい!「うまい」だけでは済まないのも水

「うそ、ほんとにコメが立った!」

これは、私が山梨にきて、初めてお米を炊いた時に発した言葉だ。

今から25年程前の話だが、当時テレビのCMで炊飯器の宣伝が流れるたびに、「あんな風になるわけがない。よっぽど高い炊飯器でよっぽど高いお米を炊いたに違いない」と疑っていた。

そんな時、地元の方からいただいたお米を高くもない炊飯器で、しかも水道水で炊いた。そしたら、米が立ったのだ。…衝撃だった。

思い返せば、水道水もカルキ臭くないのだ。米と水の相性がよければ安い炊飯器でも米は立つのか、と感動し、改めて「水はなくてはならない大切なもの」なのだと知った。

ちょうど同じ頃、職場でも衝撃的な発掘現場を見学することになった。…堤防の発掘調査である。頭の中は「?」だらけだった。お恥ずかしい話だが、当時新米の文化財担当だった私には、堤防を発掘調査するという概念はなかったのだ。

堤防の積み石

だって、山梨といえば「縄文王国」。つい、発掘調査=縄文時代の遺跡の調査とばかり思い込んでいたのだから。今の私であれば、興奮気味に堤防の調査成果について語る上司の話に食い気味でついていける自信はある。

さて、話は戻るが、堤防の調査で盛り上がる上司たちをそばで見ていて気づいたことがある。

一つは、この人たちは堤防の調査を通じて人と水との関係を探っているということ。もう一つは、「水はありすぎても困るもの」ということだ。

水は「なくてはならないもの」であり、「ありすぎても困るもの」なのである。こんな2面性を持つ水と、韮崎で暮らす人たちはどのように関わってきたのだろうか。素朴な疑問がわいてきた。

韮崎の水と人との関係について語るのは恐れ多いことだが、これでも自称研究者の一人だ。多めに見てもらい、この先のお話にも少々お付き合い願いたい。

 

「山梨って水害ないですよね」という言葉

川 七里岩

そういえば、近頃「山梨は災害というか、水害がないですよね。住むのに安全そうですよね」といった話を耳にすることが増えた。どこからそんな情報を入手したのかと絶句してしまう話である。

「水害は起きてもおかしくないです。安全だなんて思わないで!」

少なくとも、このエッセイを読んでくれている人にはそう伝えてもらいたい。こう伝えなければ、皆さんはホラ吹きになってしまうからだ。

確かに、近年水害は発生していない。数年前にも水害の危険が及んだこともあるが、堤防決壊には至らなかった。ただ、そういったところだけを切り取って、「水害がない」とか「安全だ」とか軽々しく口にしてもいいものなのだろうか?

そこで、私は可能な限り水害に関する資料をかき集めた。その中から、1701年~1867年(166年間)の水害の記録(残っているだけ)を辿ってみると…

その数、130件。

つまり、年に1度は「記録に残さざるを得ない水害があった」ということになる。それも、年によっては、4回以上も発生しているのだ。

堤防の発掘調査

それはつまり、いつまた大きな水害が起きてもおかしくないということでもある。言い換えれば、偶然、ここ数年大きな水害が発生していなかっただけなのだ。

だが、これをただの偶然という言葉で片付けてはならないと、私は考えている。なぜなら、被災した方々が復興に力を注ぎ、災害を防ぐための努力を続けてきたからこそ、大きな災害に至らなかったに他ならないのである。

まずは、今を生きる私たちと、これから生まれてくる人たちに向けられた、被災と復興を体験した人たちが水といかに向き合ってきたのか、その生々しいメッセージを紹介していきたい。

 

生々しいメッセージ…それは「挑戦」の姿

突然だが、皆さんは「自然災害伝承碑」という地図記号をご存じだろうか。

2019年の防災の日に、国土地理院発行の地図に新しい記号が仲間入りした。それが、自然災害伝承碑である。

この記号は、「地震、津波、洪水、噴火といった大規模な自然災害の状況や教訓を後世に伝え残すために作られた災害碑、慰霊碑、記念碑等の碑やモニュメント」とされている。

自然災害伝承碑

自然災害伝承碑の地図記号(国土交通省国土地理院HPより

要は「身近な災害の歴史を学び、教訓を未来に伝える」という役割を担っているというわけだ。

お気づきの人もいるだろう。実は韮崎でも、5基の石碑が自然災害伝承碑として国土地理院に認定されているのだ。

これだけでも、水害と向き合ってきた先人たちがいたからこそ今があり、未来があるのだということが見て取れる。そうはいっても、せっかくなので、その記録を少し紹介しておこう。

 

「忘れてはいけない…」60年前に起きた災害と復興の軌跡

今からさかのぼること60数年前。昭和34年の夏、とんでもない台風が日本を襲った。

甲府で瞬間最大風速43.2m/秒を記録した「台風7号」だ。山梨にとてつもない傷あとを残して、富士川をさかのぼり新潟へと抜けていった。

この時、韮崎では現在の市役所の場所に建っていた韮崎中学校の校舎(あのノーベル生理医学賞を受賞された大村智さんが通っていたところ)が無残な姿になった。

写真所:韮崎市役所
濁流で削られた土地、そして倒壊した住まい。 ここから復興の挑戦がはじまった。

また、その被害は本町通りにも及んだ。濁流が流れこみ、上流の祖母石地区では、多くの家屋が流され、屋根に登って助けを求める人の姿も目撃されたそうだ。

以前、高台に避難し災害を逃れたという人の話を聞いたことがあるのだが、どうすることもできずにただ見守ることしかできなかったという。そして、今もなお、濁流の音にかき消された、届くはずもない助けを求める声が、耳に残っているのだとも…。

それほどまでに、衝撃的な災害がこの韮崎で起きたのである。これは紛れもない事実であり、この町は、そんな絶望の淵からは復興を遂げたのである。

そのことを伝える碑が、国道20号線沿いや釜無川沿いに点々と建てられ、その中の一つにはこう刻まれている。

石碑に刻まれた、災害を被り復興を遂げた当時の人たちの思いの詰まった文を、まずは見てもらいたい。

昭和三十四年夏
台風七号直接本県を襲い全県稀有の災害を受け当地被害特に激甚なり
濁流は瞬時に全村を侵して区民辛して山腹に逃避す
然も半はその暇なく屋上などに九死す
狂奔二時間の怒涛は耕地六十町歩廿四世帯の住居を荒廃流失し剰へ人命十九を奪う
元本区は明治以降両三の水禍を被るも災の人命に及ぶを聞かず将に未曾有也
一望の美田その跡無く残る家屋も全半壊見る呆然たり時八月十四日午前十時
此の非常事態に対し国は天災法を発動し県市又別格の措置を講せらる
区民も漸く愛郷に奮起し一切を挙げて復興に努む
爾来二年 今道路耕地堤防の完成を見て万感極みなし
依つて地を卜し無量の感を永久に記念せんとす
此の所水魔侵入の所又時の宰相岸信介氏巡視の地なり
即ち区民総意により一碑を建つ名づけて治水の碑となす
郷地愛する所以は先ず治水にあるをいはんが為也
昭和三十六年八月
工事施工者
岡山県岡山市上之町 中国土木株式会社
大阪市北区絹笠町  ブルドーザー工事株式会社
京都府綾部市糸町  株式会社宮本組山梨支店
祖母石一ツ谷区民之を建つ   堯山正愛書

初めて目にする人にとっては、少々難解な言葉がつらつらと記されているように思えるかもしれない。軽々しく略して良いような内容ではないが、あえてもう少しだけ短かくするとこんな感じだ。

昭和34年7号台風が山梨県を直撃し、特に祖母石地区の被害は極めて甚大で、これまでどんな水害があっても人命が失われなかったが、この台風では19名もの尊い命がうばわれた。
非常事態宣言がだされ、地域のみならず国を挙げて復興にあたった。
復興には岡山・大阪・京都に本社を持つ会社が住民と共にあたった。そして、この災害と復興のあかしとして「治水の碑」を建立し、後世に伝えることとした。

 

水と向き合い「挑戦」し続けること

この石碑の言葉を目にして、初めてこの災害のことを知った人もいるだろう。復興のために遠くの地より駆けつけてくれた人たちがいたことを知った人もいることだろう。

どんな歴史も語り継がれなければ、知らなければ、いとも簡単に風化してしまうのだ。これは、歴史や文化遺産を後世へと残す職業柄、いつも考えさせられるテーマでもある。

韮崎 川

先人たちが水と向き合ってきた姿は、水への挑戦であり、悲惨な被災の現状への挑戦の姿である。しかも、その挑戦は一度ではなく、事あるごとにである。

今を生きる我々、そしてこれからの先の世代が生きていけるのは、先人たちが積み重ねてきた必死の「挑戦」があったことに他ならない。

このことだけは、古くから地域に住んでいる方であろうと、移住してきた方であろうと知っておくべきだ。いや、昭和34年の復興の時のように、様々な災害に対し共に「挑戦」しなければならないのだと私は思っている。

ちなみに、挑戦し続けてきた技術的な面などを直接感じとることができるのが、堤防などの発掘調査だ。断っておくが、設計図があればどれも同じだと思うのならそれは大きな間違いである。先人たちの水との戦いはそんな単純なものではないのだ

 

閏間の「ひとり言」

さて、水は恐ろしい一面も持っているということがお伝えできたと思う。水と人との関係だけでも、韮崎には豊富なネタ?が揃っている。

何度も繰り返すが、これは先人たちが水と真剣に向き合ってきた歴史と、その歴史を伝えるモノや記録が残っているからだ。

そして、韮崎は決して災害が起こらないまちではない。しかし、先人たちが真剣に向き合ってきたからこそ今があり、おいしい米が作られているのだ。

(付け加えておくと、韮崎は米だけでなく、フルーツや野菜もうまい。農作物栽培の視点から見ても水が大切だということを伝えることができる。)

その米作りにも、米をおいしく炊くときにも欠かせないのが水なのである。あの、人命をも奪う水を使うのだから驚きだ。

一方で、水害が起きるくらいだから「水不足」に困ることはないだろうと想像しがちだが、そんなことはない。これは、水不足から始まる物語が韮崎に数多く残っていることからも頷ける…。

おっと!気づけばこの記事も4,000字を超えているじゃないか!(笑)というわけで…その物語のお話は別の記事に譲るとしよう。よろしければ、これから私たちと共に水と向き合っていきませんか?