近年、韮崎のランドマーク的存在であるアメリカヤを起点に新たなお店が続々と誕生し、昔のように人が行き交い、町に活気が溢れてきたように思う。
かつてこの界隈は"韮崎宿"と呼ばれ、人や情報、物資の往来の地として活気に満ち賑わいを見せていたといわれている。人と人、物と物、そして情報と情報とが交差するこのエリアは、古くから営んでいるお店と調和しながら、新しい人を受け入れてきた。
第1回の記事同様、ここにも先人たちの「挑戦」の姿や歴史が隠されていて、それを現代の私たちが引き継ぎ新たな挑戦をしているのだ。挑戦の積み重ねによって誕生した韮崎という舞台の魅力について知ってもらいたい。
目次
過去と未来が交差する”韮崎のランドマーク”
近頃、韮崎の駅前というか「アメリカヤ」の看板を掲げている建物周辺のエリアが活気を帯びている。ここでいう「アメリカヤ」とは、昭和42年(1967年)に建てられた韮崎のランドマーク的な建物を今風にリニューアルしたものだ。
ランドマークといっても、私が韮崎に来てしばらく経つとシャッターが降り、時々先輩から栄えていた頃の思い出話を聞く程度であった。
「レトロな風貌かつ、地域の方々の楽しい記憶が刻まれた素敵な建物だな〜」「栄えていた頃の姿を一目みたいな〜」「何とかできないかな~」とは思っていたものの、しがない地方公務員の私にはいかんともしがたく。…ただ指をくわえて眺めるだけだった。
それから20年間が過ぎ去ろうとしていた頃である。「アメリカヤがフルリノベーションされる」という噂を耳にした。その時は「取り壊して、新しい建物が建つんだろうな~」と思っていたが、完成した姿を見てその期待は良い意味で裏切られた。
建物の外観はほぼ昔のママ、もちろん補修すべきところはしている。でも、昔の雰囲気はしっかりそのまま残っているのだ。加えて中に構えるお店は新鮮で、若い人たちの挑戦している姿がなんとも心地よい。
ちょっぴり古いんだけど、なんだか新しい。新旧が見事に融合したこの場所は、インスタ映えする場所としても注目を集めているようで、休日になると賑わっている様子が見られるようになった。昔のアメリカヤを知る人も活気のあった当時の姿を思い出し、青春を思い出すこともできる。
そして、初めてこの場所を知った若い人たちも、新たな「韮崎のランドマーク」としてアメリカヤのことを次の世代へも語り継いでくれるだろう。
リノベーション後のアメリカヤを見たときに、過去から現在に至るまでのアメリカヤで行われてきた挑戦の積み重ねが見えてきた。そして、未来に向かって大きく進もうとする気概を、目の前にある建物が語りかけてくるように感じた。
その他にも、アメリカヤ横丁や韮崎へ移住してきた若者たちが始めたカフェやピザ屋などのお店など…町の至る所で、たくさんの挑戦に出会うことができるのだ。
こうやって話をしていくと、若い世代や新たに韮崎に移住してきた方々ばかりが挑戦しているかのように聞こえてしまうかもしないが、それは違う。この地で絶えず、挑戦し続けてきた人たちが…いや、今も挑戦し続けている人たちがいるからこそ、この町の歴史はこれだけ続いているということを忘れてはいけない。
そもそも、なぜ、町の歴史を取り上げる必要があるのか?というと、それは、今、韮崎宿界隈の様子が大きく変わろうとしていると強く感じたからだ。
時代が変わろうとも、その姿や形が変わろうとも、町が挑戦してきた歴史は変わらない。ただ、私は挑戦を支えてきた、そして支え続けている舞台の姿が変わることで、挑戦を支えるパワーがなくなっていってしまうのではないかと不安を覚えているのだ。
韮崎の歴史を研究する仕事をしている私の願いとしては、新たな挑戦をする人たちには、過去の韮崎の歩みや挑戦してきた人の戦いの記録を知った上で、現代にフィットした町にしてほしいと思っている。
韮崎宿で絶えず繰り返された”挑戦の軌跡”
さて、前置きが長くなってしまったが、本題はここからだ。今話した、アメリカヤをはじめ、現在の本町通り、駅前通り、下宿通りは広い意味で「韮崎宿」として歩んできた歴史がある。
韮崎市大村記念図書館に『韮崎町制六十年誌』という、分厚く小さな文字がびっしりと並んだ、ちょっぴり敷居が高い本があるのだが、その「韮崎町商店」という項目に、お店の名前・業種・創業年など、韮崎宿の情報が記録されている。
私の数え間違いがなければ、この本を作成した昭和20年代の初めころには、329軒の商店があったのだが、現在は150軒まで減り、その中でもっとも古いのが享保元年(1716年)1月に創業した冨屋酒造店だ。
ちなみに冨屋さんの当主の苗字は小野さんである。
(この苗字を聞いてピンときた人がいたら、かなりの韮崎オタクである。知らない方も多いとは思うので、今後のネタとしてとっておくとしよう。)
さて、その冨屋酒造店だが、今はもうない。では、現代まで残っている商店で最も古いところはどこかというと…弘化2年(1845年)創業の「旅館清水屋」さんだ。(今年で176年目を迎える)。
次に、慶応元年(1865年)に創業した飲食店業の「八嶋」さんが続く(157年目)。あの美味しいウナギを食すことのできるお店だ。
一見、この記録だけを見ると、冨屋酒造店の創業から八嶋さんの創業までの19年間に新たなお店はなかったかのように見えるかもしれないが、数字や見かけに騙されてはいけない。
あくまでも創業から昭和20年代まで続いたお店だけが紹介されていて、その間に創業し廃業したお店の記録は書かれていないのである。
江戸時代に描かれた韮崎宿の様子を記録した「甲州道中分間延絵図」を見ると一目瞭然で、かなりのお店があったことがわかる。
つまり何が言いたいのかというと…この記録には、韮崎宿周辺で「創業⇒廃業⇒創業⇒廃業」というサイクルが絶えず行われてきたということが行間から読み取ることができるのだ。
ちなみに私は、創業のみならず廃業という選択をしたお店も、生き抜くための挑戦なのだと思っている。皆さんにも大なり小なり、あきらめるという選択をした経験はあると思う。
あきらめるという言葉には、どこかマイナスのイメージがあり、誤った選択のように捉えられてしまうかもしれない。しかし、私は「あきらめる=その先へ進むための前向きな挑戦」であると思っているからだ。
「水」と向き合い形作られた裏通り
話がやや横道に逸れてしまったが、韮崎宿についてもう少し深掘りしよう。
まず、韮崎宿と聞くと、まっすぐな本町通り、そして韮崎駅に向かう駅前通りなど、カーブはあるものの比較的整った道に沿った街並みというイメージをお持ちの方も多いのではないだろうか。
そのイメージは間違ってはいないが、今回は私がお話したいのは、裏通りのことである。
(裏という表現をすると、そこにお住いの方々には少々失礼かもしれないが、あくまでも大きな通りを「表通り」と呼ぶなら、その背後にある通りは「裏通り」となるだろうという仮説から表現しているだけなのでご勘弁願いたい。)
実は、この裏通りは韮崎宿という舞台を形作った歴史そのものを表しているのだ。
実際に歩いてもらうとわかると思うが、裏通りには小刻みなカーブやクランクが多いことに気が付くだろう。しかも、よくよく観察すると釜無川の方、つまり西側に向かって緩やかな傾斜ないしは盛り上がりがある。
この傾斜は川によって削られた跡で、盛り上がりは中洲状の高まりなのだ。その傾斜の境界に水路ができ、その水路を利用するために道が作られたと考えてもらえればと思う。
「ブラタモリ」のタモリさんの視点を思い出しながら町を歩くと、その町の歴史や風景がありありと見えてくると思うが、まさに韮崎宿もそうなのだ!
この裏通りの水路を上流にたどっていくと、本町通りから武田橋を渡ろうとすると丁字路で左折することになる。その右手には七里岩があり、道からは見えないがよくよく見ると神社が佇んでいる。社名は「白髯神社」。そう、本町の裏通りの水路は、この白髭神社へと向かっているのだ。
この白髯神社には白いひげを生やしたご老人の神様が祀られている。はて、どんな神様なのかというと、水害が起きそうになった時に、「危ないぞ!」と知らせてくれるというそれはそれは、ありがたい神様なんだとか。その神様のいる社が、韮崎宿に張り巡らされた水路の起点となる場所に鎮座しているということになる。
人が住むためには水は必要不可欠である。この町の用水路をじっくり観察すると、川の流れによって作られた水の流れを見逃さず、うまく利用して住み続け、今の町のカタチを作った先人たちの挑戦が垣間見られるのだ。
それと同時に、有用な水の起点は、裏を返せば、町のカタチにダメージを与える水害の起点でもあり、そこに神社を作り、神様をまつることで町を守ろうとしてきた先人たちの心の一端を覗くことができるのだ。
初回の記事で、韮崎には水への挑戦が数々残されていると説明したが、韮崎宿を宿場町として作り上げてきた先人たちもまさに、水と向き合い闘い続けてきたのである。
活動の舞台である「韮崎宿」そのものが、先人たちの挑戦の気持ちが込められ出来上がっているのだから。だから、未来に向けて挑戦しようとする人たちが、この舞台へと集まってくるのは至極当然のことなのかもしれない。
これは余談だが、韮崎宿周辺は川によって削られた形だからこその強みも隠されているのだ。
それは、七里岩の先端で3つの大きな街道が交わるということ。1つは、清里・佐久そして群馬へとつながる国道141号線(佐久往還)、次に諏訪や甲府へと向かう国道20号線(甲州街道)、最後は、身延、静岡へつながる国道52号線だ。
これら山梨県内の主要道及び、県外へと繋がる道を介して、ヒト・モノ・ジョウホウが集まりそして発信されていく。これらの要素は、挑戦には必要不可欠なものだ。
ああ、またもや5,000字超えの大作になってしまった。もう少し「道」が交わっていることについて話したいのだが、ここまでにしておこう。
閏間のひとりごと
若い人たちも、移住してきた人たちもそして、先代から引き続き住んでいる人たちにお伝えしたいことがある。
韮崎には、私たちの挑戦を支える舞台がすでに整っていて、その舞台は先人たちの挑戦によってつくられたものだということを忘れないでほしいということ。
そして、町のカタチが変わりつつあるのは、時代の流れという得体のしれないモンスターからの我々に対する挑戦状なのかもしれない。その挑戦状にどう向き合うのか、未来を預かる我々が避けて通ってはならない挑戦を真剣に考える時なのではないだろうか。
韮崎を舞台に、現在「挑戦」という演目を演じ生きている私たちがいて、この先の世代にもこの姿を残し伝えていくことが私たちの役割である。なんらかの挑戦の積み重ねが、個人の歴史となり、強いては社会の歴史へと繋がっているのだと私は思っている。