韮崎で自然と共に暮らす女大工|ナトリユウコと韮崎と未来

韮崎に住み着いて20数年・・・穂坂町で主人と二人で大工をしている名取裕子です。

山梨の、韮崎の住み心地の良さに、日々感謝の49歳!3人の母です!

趣味は、

端材を使った木工品制作・仲間とのソフトバレー・着物を着ること・スノボ・スキー・ソフトテニス(娘の部活の影響)・ゴルフ・素潜り・らくらく登山・ジオキャッシング(世界規模の宝探しアプリ)・卓球・風景写真・飲み会w・講演会参加・読書(ベタだけど伊坂幸太郎すき山田詠美とかも)

多趣味で好奇心旺盛な私は、これまでいろんなところに住んでみたけれど、結構韮崎って、実は…かなり…お気に入りのまちです!

私がここに住み着くことになったいきさつと、このまちを気に入っている理由とは・・・? 

 高校を卒業して、大工になって山梨に来るまで

都会にあこがれ

新潟県十日町市(旧松代町)日本屈指の豪雪地帯の過疎地域に生まれました。夏は湿度が高いので蒸し暑く、冬は毎年2m以上の雪が積もります。

新潟の雪の写真

新潟の冬。一晩で1mの積雪はよくあること

高校を卒業するまで、飲み込まれそうなくらいの圧倒的な自然に囲まれた田舎で過ごしました。

休みの日に何にもすることがなく、出かけるところもない田舎が退屈でとても嫌でした。卒業したら絶対田舎から出て行く!と強く思っていました。

棚田で有名な星峠の写真

地元の光景。棚田で有名な星峠までは実家から車で10分

「大工になりたい」けれど最初の勤め先は工場?

そのころの夢は、大工さんでした。

きっかけは中学生の頃、物置を改修して個室を作ってくれた大工さんの仕事を見たこと。すすけた真っ暗な部屋が白い壁になり、ぴかぴかのフローリングに生まれ変わっていたのです。

「大工ってすごい!!すすで真っ黒だったあの部屋が!」ものすごく感動しました。

だけど当時は(いつかなりたいな…)といった漠然とした憧れのままでした。

とりあえず建築関係の大学とか行けばいいのかな?と、受験のために勉強をしていたのですが、ふと高3の2月頃、勉強するのが急に馬鹿馬鹿しくなってしまいました。

「この公式とか訳の分からん記号とか、将来役に立たないでしょ!」と思ってしまって。

高校生の頃の写真

高校生の頃。まだ頑張って勉強してた…かな…?

バブル景気でお金も欲しかった私は、受験を放り投げて派遣社員として千葉で働くことにしました。

派遣された会社で行っていた機械を組み立てる仕事は適度に頭と体を使う楽しい仕事でしたが、景気が悪くなり私の担当が工場内のクリーンルームに変わってからは、働く環境への疑問が湧いてきました。

部屋の中では完全に男女の仕事が分かれていて、男性の手が足りず女性の手が余っていても男性の作業を女性がすることを決して認めてはくれませんでした。

そういう固まった考えの職場でずっと過ごすことが私のやりたいことなのか?私のやりたかった仕事=大工に挑戦してみるなら、今なんじゃないか?と考え、正社員にまでしてくれた会社を辞めることにしました。

大工をめざして横浜へ

大工を志すにあたり、求人情報誌で職場を探しました。すぐに横浜で「女性でも可」との条件の会社が見つかり入社しました。

道具の使い方や材料の名称、知らないことだらけでしたが、いろんな人との出会いや知らない土地に行けること、そして日々仕上がっていく建物を見るのはとても楽しくやりがいを感じました。

そして、私のやりたかったことはやっぱりこれだと認識したのです。

大工仕事をしてる写真

暑い夏の上棟。木の家はやっぱり気持ちいい。

大工は車がないと道具を運べないので車を購入し、あちこちの現場に車で行くようになりました。
休日には海やスキーに一人で車を走らせました。山梨にもよく来ていました。

次第に、自然に触れると心がほっとすることに気づき、濃い緑色の山をみると深呼吸したくなるのがわかりました。

そして山梨県韮崎市へ

横浜の工務店を業務縮小により退職した時、次に働く地の候補として一番に思い浮かんだのが山梨でした。

それは、横浜時代に見た自然素材を生かした建築に魅力を感じ、自然が豊かな山梨でならそれが実現できるのではないかと思えたこと、ドライブで見たことのある韮崎の街並みが便利で暮らしやすそうだと感じたことからでした。

横浜時代に心ときめかせていた木の家の写真

横浜時代に心ときめかせていた木の家への想い。格好いいし、心地よさそう。

北杜市の工務店に求人もしていないのに電話をかけ、働かせてくださいと申し出ました。
即OKをいただき、二日後くらいに事務所に
顔合わせに伺い階下の不動産屋さんでアパートを決め、あっという間に韮崎市に引っ越してきました。

暮らしだしてみて、癖がかなり強い甲州弁やウィンカーを出さない自由な運転をする車の多さに面喰いましたが、四方を山が守ってくれているような景観、高速道路や特急が停まる駅があること、大きなスーパーやホームセンターがあることで「ほどよい田舎」を実感しました。 

同じ工務店で今の主人と出会い、ものすごくせまーいところで生涯のパートナーを得て、主人の生家の隣に二人で家を建て子供が3人生まれました。

子どもたちが木で遊んでいる写真

新潟で母が私にしてくれたように、わたしも自然のなかで子供と遊ぶ

その後独立し個人事業主として主人と二人「ダイクス」という屋号で大工を続けています。

自然豊かな山梨・韮崎を拠点に、憧れだった自然素材を生かした木の家づくりで、こんどは皆の夢をかなえています。

自然と共存することの大切さを教えてくれる韮崎暮らし

景観の美しさ・自然の豊かさ

“ 韮崎 ”と聞いて真っ先に頭に浮かんでくるのは、山並みの美しさ、それと空の広さです。

東西南北を名峰が囲んでいるなんて、なんて贅沢なんでしょう。方角を山で言うのは韮崎あるあるですよね?

雲と太陽が作る景色にもうっとりします。

面白い雲なんか見つけてしまった日には、仕事が手につきません。帰宅して家族にその雲の話をすると、同じように空を眺めていた、なんてこともしょっちゅう。

動植物にもたくさん出会えます。オオムラサキや玉虫を見たときには驚きました。手軽に出会え過ぎやしないか!?

オオムラサキの写真

家の裏の木にオオムラサキが毎年やってくる!群青の宝石。

茅ヶ岳の景色

ふと思い立って、ひとり茅ヶ岳登山

農業が盛んで、自分で育てて食べる、を実践できるのもいいところだと思います。

作り手の立場でものを見ることができるようになります。

安心・安全な食のためには手間がかかることを知り、その値段にはそれだけの価値があることが理解できるようになります。

スーパーで地元のものを見つけたらきっと愛着を感じるのではないでしょうか。

ぶどう栽培の様子の写真

主人の生家はぶどう栽培農家。私も見よう見まねで手伝うように

ぶどうの写真

手をかけただけ、感動のごほうびをくれる作物

はじめから韮崎に生まれ育った人たちには当たり前になってしまっているかもしれない贅沢を、韮崎に住んでとてもありがたく受け取っています。

でもそれはやはり一度離れて外から見てみなければ気づけないこと。

私が生まれ故郷を嫌って出て行ったように。今では新潟の良さだっていくらでも言えるほどです。

新潟の春の花の写真

新潟の春。生命の爆発。

人生の質を考えたら…

韮崎の田んぼに夕日が写っている写真

疲れて帰ってきても、この景色でまたがんばれる。韮崎に住んでから写真を撮ることが好きになったな。

便利で豊かになった現在、もうこれ以上の進化は必要ないと思えるような世の中になりました。価値観が変わり、経験や感動が人生を豊かにする大切な要素となる時代です。

韮崎という場所は四季の移ろいをこれでもかというほど感じられるし、食の生産をすぐそばで体験できます。人間が太古の昔から行ってきた生活を体現できる、人間が人間らしく生きることができる土地だと思うのです。

美しく豊かな自然に囲まれて育った人が、その自然を壊滅的に破壊してお金に換えようとするでしょうか。動物が住んでいることを感じられる人が、そこにごみを捨てようとするでしょうか。

私たち人間は自然から生まれ自然に還っていく生き物です。自然の営みに逆らわずに暮らせば、健康で元気に暮らせるのです。私たちは土や水や空気を身体に取り込み生きています。自然と共存していることを忘れてはいけないということを、韮崎にいると日々実感するのです。

環水平アークのときの空の写真

韮崎に来て、初めて見た!環水平アークという気象現象

韮崎市出身で2015年にノーベル生理学・医学賞を受賞した大村智博士は、土壌内の微生物から難病の薬を開発しました。「答えは自然のなかにある」と。

アメリカ生まれの詩人アーサー=ビナードは紙芝居『ちっちゃいこえ』で言いました。「自分の細胞のこえに耳を傾けているか?」と。

都会にいると、ひと・モノ・情報・電波・薬・ニセモノ…あふれる数々に「自分」が押し流されてしまいそうになります。でも韮崎を知っている皆さんは、「自分」が軸にできる場所を持っているんです。

韮崎を感じながら、自分の内側のきらきらした部分の声を聴きながら健康で元気に毎日を過ごしていってほしいです。私もそうします。

Facebook:名取裕子
Instagram:Yuko Natori

おまけ情報!フリーマーケットのお知らせ

1月31日(日)に甲府市のstudio pelletさんにて開催されるフリーマーケットに参加します。
もしこの記事を読んで、私に会ってみたいと思ってくれた方がいましたら、よければ会場でお話ししましょう!

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